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作成日:2006/09/29


住井すゑとその文学の里(八)  〜牛久沼のほとり〜

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

犬田卯と結婚して田端文士村に住む

 住井は、講談社の野間社長に提出していた待遇改善案が、まったく受け入れられなかったので退社した。退社後すぐに、野間社長との争いを題材にして、住井すゑ子の筆名で『相剋』という初めての長編小説を書き下ろした。住井は、その相剋の原稿を生田長江(文芸・宗教評論家)のもとに持参して、激賞された。そして生田の世話で、表現社から大正10年(1921年)の8月に刊行になった。序文は菊池寛に書いてもらった。
 一方、犬田卯は博文館で農業雑誌『農業世界』の編集を担当していた。ところが、犬田が農業世界に書いた農地解放に関する評論が筆禍事件に発展した。これは左翼思想だ、日本の代表的な出版社博文館の社員の中から「左翼」が出たという騒ぎになり、結局、責任を取らされて退社ということになった。(橋のない川住井すゑの生涯より)
 この年の10月に住井は犬田と結婚して、北豊島郡瀧野川村田端429番地(現北区)の、玄関を入れても三間の借家を新居とした。「田端文士村記念館」から提供いただいた資料によれば、この辺りは明治中期までは閑静な農村であった。同22年(1889年)に上野に東京美術学校(現東京芸大)が開校されると、上野とは台地続きで交通の便が良かったことなどから、小杉放庵(小川芋銭と交流があった)を草分けとし、岡倉天心、竹久夢二、香取秀真、中村彝・板谷波山(茨城県出身)などの芸術家が続々転入。さらに芥川龍之介をはじめ、菊池寛、堀辰雄、室生犀星らの文士が移り住み、競うように作品を発表して、名声を高めたため、「田端文士芸術家村」と呼ばれるようになった。そのころ日本中で、「おれは河原の枯れすすき」という歌い出しの『船頭小唄』が大流行していた。その作詞者で茨城県出身の野口雨情が、田端文士芸術村の一角にあった「金の船(金の星)社」の編集部に寄宿していたことがある。

田端文士芸術家たちが歩いた道

道

「田端文士村記念館 パンフレット」より
(財)北区文化振興財団 田端文士村記念館 提供

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