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作成日:2006/02/01


南北朝・室町・安土桃山前期の牛久領主岡見(尾上)家の興亡(四)

豊臣秀吉の小田原北条家征伐と岡見(尾上)家

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功


北条家に従属した岡見(尾上)家と証人(人質)

 戦国大名第一号の初代早雲が興した北条家は、天正8年(1580年)に氏直が5代目を継いだ。その段階で、北条家は小田原に本拠を構え、関東8カ国に支城五十余(牛久城もその支城)を持つ大王国になっていた。
 ところで岡見(尾上)家では、それより10年前の元亀元年(1570年)に谷田部城(つくば市)を真壁郡の下妻城(下妻市)主多賀谷政経に奪われるなど危急存亡の秋であった。多賀谷家はもともと結城城(結城市)主結城家の家臣であったが、断絶して常陸国最大の豪族で太田城(常陸太田市)主の佐竹義重と手を組み、常総の地に小田家に代わる威勢を張っていた。結城家の方も北条家と手を組んで下妻城を攻め立てた。岡見(尾上)家でも天正8年に北条家に援軍を求め、三千余騎を率いた北条家宿老の氏照、氏邦兄弟軍と連合して谷田部城を奇襲。守将の多賀谷経伯を自害に追い込んだ。が、すぐに谷田部城は多賀谷重経(政経の子)に奪回された。
 織田信長が天正10年(1582年)に本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉がその後継者になった。同15年の段階で秀吉に恭順の意を表していない戦国大名は北条氏直と、奥州米沢の伊達政宗だけになった。氏直の場合は秀吉の上洛(京都に上ること)命令を拒み、同16年には上野国の桐生城(群馬県桐生市)の由良国繁ら五十余支城城主に、秀吉の動き次第ではすぐにでも出馬せよと命じ、同時に「城主(その実子か父親)自ら」小田原城に証人(人質)として籠城するように命令を発して、戦の準備に取り掛かった。
 一方、足高城主岡見宗治と牛久城主尾上治広には、北条家宿老の氏照が証人(人質)の提出を要求してきた。ところが岡見(尾上)家では、そのころ下妻城主の多賀谷重経の侵攻に遭い、若栗城、高崎城、泊崎城(各城ともつくば市)、小張城、足高城(両城とも伊奈町)などを失って、宗治は牛久城に落ち延びてきている状況であった。この合戦で岡見(尾上)家では多数の犠牲者を出した。

牛久城は秀吉に接収され由良国繁に充行われた

 天正18年(1590年)の1月に秀吉は諸大名に小田原出陣の命令を発し、3月1日に京都を発って小田原へ向かった。秀吉の二十万余の雲霞の如き大軍に東海道、北陸、そして海路の三方から小田原城が十重二十重に取り囲まれると、氏直は籠城3カ月余の後に降伏した。
 牛久城は7月に秀吉馬廻り役(旗本)山田太左衛門によって接収された。
 8月1日、秀吉より牛久城五千石余の領地充行状が妙印尼輝子(慶長3年(1598年)に改めて子の由良国繁に充行状が出された)に出された。これは妙印尼輝子への論功行賞であった。彼女は前年に秀吉に「款(服従する書状)」を送り、77歳の老齢でありながら、数珠を手に、黒頭巾をかぶり僧衣の上に赤糸縅の鎧をまとって輿に乗り、孫の貞繁以下200騎を率い、松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)を包囲中の前田利家の北陸軍に加わり各地に転戦したのだった。
 牛久に移ってきた妙印尼輝子、国繁母子は城の規模を拡大する工事に着手するその一方で、城内の中城に24戸、埋作に11戸、衣崎に11戸、南原に35戸、根古屋に7戸と家臣のための屋敷割を行った。また、城内の道路には侵攻に備えて所所に自然の地形(傾斜地)を利用して筋違いや袋小路を設けた。
 なお、牛久城主の尾上(岡見)治胤が嘉吉3年(1443年)に東林寺を開基したという記録があるので、牛久城はそれより前に築かれていたわけだ。岡見城の岡見(尾上)家には隆盛期に「岡見(尾上)家18人衆」と称された家臣がいた。岡見町にはその末孫にあたる方々が居住しておられる。
(写真) 多賀谷重経感状(石浜和也家蔵)…天正16年(1588年)9月13日に下妻城主多賀谷重経より家臣の石浜因幡守に発給された感状。これは尾上(岡見)家の牛久城攻めの際、多数の牛久衆を討ち捕えた戦功を賞したものだ。(旧下妻市役所刊「下妻市史」より)

※ 次回からは「住井すゑとその文学の里 牛久沼のほとり」を掲載します。


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