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作成日:2005/11/30


南北朝・室町・安土桃山前期の牛久領主岡見(尾上)家の興亡(二)

岡見(尾上)家始祖朝義とその略系図

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

岡見(尾上)家始祖朝義と発祥地・岡見

 南朝年号・興国2年=北朝年号・暦応4年(1341年)の夏、南朝方に与する小田城に、戦意の高揚を図るため後醍醐天皇の孫にあたる9歳の興良親王が入城した。その小田城を北朝方足利軍の総大将高師冬率いる将兵が十重二十重に囲み、激しく攻め立ててきた。小田城中の小田治久のもとには、吉野山(現奈良県吉野郡吉野町)の南朝御所で生じた内部分裂の情報が次々と伝わっていた。治久は激しく動揺し、この年の秋に師冬の軍門に降った。小田城に在城していた興良親王と北畠親房は関城(現筑西市)へ逃れた。
 ところで小田治久には孝朝という嫡子がいた。孝朝が小田家の8代目を継いだ。孝朝は小田流剣法を編み出すその一方で、和歌に優れ、書をよくする文武両道の武将であった。
 さらに小田治久には三郎朝義(源家の系統では義朝、頼朝など朝を多く用いた)という三男がいた。この朝義が岡見(尾上)家の始祖だ。朝義は小田家領の河内郡岡見(現岡見町)に掻上城(下図参照)を構え、岡見(尾上)を名乗った。城といえば誰もが土浦城や江戸城のように、石垣の堀に水を湛えた城を思い浮かべる。が、岡見に築かれた掻上城というのは、高台の屋敷の周囲に空堀を掘って、その土を盛り上げて土居にした「空堀と土居だけからなる城」であった。岡見(尾上)家の子孫は牛久城、東林寺城(新地城)、小坂城、谷田部城(現つくば市)、足高城(現伊奈町)を築いたが、すべて掻上城であった。ただし、牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉より牛久城主に任ぜられた由良家が本格的築城法に則って大改修した。

岡見(尾上)家略系図

掻上城絵図(新人物往来社刊『図説日本城郭史』より)

 岡見城も牛久城もこの絵図のような掻上城であった。ただ牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉に牛久城主に任ぜられて由良家が大改修した。下の写真は岡見城跡の土居(土塁)。土が盛り上げられている(矢印)


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