トップページ → p1p2p3p4p5p6p7p8p9p10
p11p12p13p14p15・p16・p17p18p19


作成日:2007/03/29


歴史・読み物 昔の牛久

住井すゑとその文学の里(十四) 〜牛久沼のほとり〜

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

関東大震災と犬田・住井夫妻

 加藤友三郎首相兼海相が陸海両軍の軍備縮小に心血を注ぐ中で大正12年(1923年)8月24日に急死し、内田康哉外相が臨時首相を務める9月1日の午前11時58分に関東地方一帯は大地震に襲われた。大地震は断続して数回起こった。昼食時なので火を使用していた家庭が多く、第1回目の大揺れ直後に東京市内(麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15区)は、一度に百四、五十カ所で火の手が上がり、次々と延焼して、3日間燃え続けた。東京(江戸)直撃の大地震は幕末の安政6年(1853年)以来64年ぶりだった。ちなみに江戸時代265年間に全国で大地震は44回起こり、その中でマグニチュード7・75以上の巨大地震は10回起こった。
 犬田・住井夫妻が住む東京市郊外の北豊島郡瀧野川村田端の文士芸術村辺りは高台で岩盤が硬く、何事もなかった。住井すゑエッセイ集(牛久沼のほとり)によれば、東京が「関東大震災」の波をかぶったのは9月1日で、都市の機能は一挙に麻痺。人々は混乱に混乱を重ねた。そんな中で、生まれて間もない長男、章を抱えながら、わが家は幸にというか、日々の暮らしに何の支障もなかった。もっとも停電のため、夜は食用油を灯火に使ったりはしたが…。しかし、その不自由さもやがて解消。焼け跡には見る見るバラックが建ち始めた。
 野口雨情作詞の船頭小唄(原名枯れ芒)が大流行しているときに大地震が起きたので、小説家の幸田露伴が「このような頽廃的な唄が流行ったからだ」と発言して話題になった。
 焼け跡には9月下旬になると露店街が出現して、復興の槌音が響き、歌は世につれ世は歌につれというが「家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ」という謳い出しの「復興節」が流行り出した。

いはらき 大正12年9月2日号(茨城新聞社提供)

いはらき 大正12年9月2日号(茨城新聞社提供)
 大正12年9月1日の大地震による常磐線上り客車脱線事故現場(花室川鉄橋よりやや荒川沖駅寄り)記事。事故現場は新治郡東村(現土浦市)。保線区員らによる復旧作業が始まった9月1日の夕方、彼らの頭上に東京市内で燃えた紙片が舞い降りたという。また東京方面の夜空が真っ赤だったともいう。

トップページ → p1p2p3p4p5p6p7p8p9p10p11p12p13p14p15・p16・p17p18p19

Copyright(c)1999,USHIKU CITY HALL. All rights reserved.