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作成日:2005/08/31

歴史 読み物 昔の牛久

茨城県初代知事 山岡鉄舟と牛久宿(3)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

茨城県初代知事職に任命された鉄舟

 明治4年(1871年)の11月13日(現県民の日)に茨城県が誕生して、県庁が水戸城内に置かれた。言うまでもなく水戸城は徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城だった。前将軍慶喜はここの第9代藩主斉昭の七男として生まれた。水戸藩は水戸学(第2代藩主光圀が編さんした大日本史から興った学風)の尊王敬幕・尊王攘夷(尊王のための攘夷で尊王倒幕ではない)思想の発祥地でもあった。また水戸藩では幕末維新に、改革派天狗党と保守派諸生党が対立して武力衝突に発展し、その余韻の中での茨城県の誕生だった。
 太政官(政府)より茨城県の初代知事(参事格)適任者として任命された鉄舟は、水戸城に赴任した。水戸城は3年ぶりだった。太政官首脳部が最も危惧していた水戸県などより茨城県へ移行する諸書類の決裁作業は、同年の12月9日までにすべて完了し、鉄舟は在任期間27日で、伊万里県(現佐賀県)令に転任していった。
 ところで旧藩(地方)には幕府より一定の分権(行政・立法・司法)がされていた。一方、明治維新政府の王政(天皇政治)復古による中央集権は、「神武(初代天皇)肇基に範を求めることにした」とあるが、実際には第40代天武天皇(在位673〜686年)を手本にした。天武天皇は「現人神(『大君は神にし座せば天雲の雷の上に盧らせるかも』とその当時、柿本人麻呂が天武天皇を神聖視した歌を詠んだ)」と呼ばれ、左右大臣を置かずに絶対的な天皇権を発揮し、官僚制度(第33代推古天皇の摂政、聖徳太子が西暦604年にその基礎を作った)を確立し、文武両官とも騎兵・歩兵として訓練させて国家の危急に備え、さらに中央集権の統一国家に作り上げたのだ。が、その後の歴史は、地方(藩などでその動きは南北朝時代からあった)分権と中央集権を繰り返してきた。

鉄舟は明治天皇の特命によって終身宮内省御用掛に

 明治5年(1872年)の6月に太政官より鉄舟に明治天皇の侍従職(天皇に最も近い側近)の辞令が出た。鉄舟はこれを受けた。「忠臣は二君に事えず」と旧幕臣あたりが鉄舟を批判した。が、鉄舟は「朝廷(天皇の政庁)への忠の中に徳川への忠があるのだ(これは矛盾しない。水戸学にある『尊王敬幕』の思想だ)」と真っ向から切り返した。鉄舟は同10年(1877年)に宮内省庶務内廷課長、同14年に宮内少輔などを歴任し、同18年に子爵を授けられた。
 ところで、第11代の垂任天皇(在位300年代前半)が、日本で最初に相撲を取らせたようだ。平安時代の第45代聖武天皇(在位724〜749年)は相撲節会を行った。これは集めた相撲人(力士)を、平城京(古代都京、現奈良市)を中心に見て、東方出身力士と西方出身力士に分けて対戦させ、一方が勝てば豊作、もう一方が勝てば不作と稲の出来秋の吉凶を陰陽寮(役所)の陰陽師(後世に安倍晴明がいる)に占わせる儀式であった。
 相撲は室町時代末期になるとそれを業とする力士が生まれた。江戸時代の元禄年間(1688〜1703年)には観進相撲(木戸銭を取った)が盛んになり、63連勝中の初代横綱谷風を破った5代目横綱小野川ら大力士の活躍が人気を呼んだ。相撲が国技に定められたのは明治42年(1909年)に両国に国技館が開設されてからのことだ。
 鉄舟は明治天皇の特命によって、終身宮内省御用掛の身分にあった。その鉄舟が明治天皇に相撲を取ることと飲酒の禁止を忠諌したことがあった。ところが、鉄舟が明治天皇と相撲を取って投げ飛ばしたとする小説があるが、これは正確な話ではない。

茨城県初代知事就任時の
山岡鉄舟(36歳)
〈茨城県立歴史館提供〉


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