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茨城県初代知事 山岡鉄舟と牛久宿(2)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

勝海舟・高橋泥舟と並んで幕末の三舟と呼ばれた鉄舟

 山岡鉄舟は天保7年(1836年)に旗本六百石取で御蔵奉行を勤める小野高福の五男として、本所大川端四軒屋敷(現墨田区)の役宅で生まれた(旗本とは将軍直属の一万石以下、御目見《将軍に謁見できる二百石以上》以上の格の家臣を指す)。小野家の始祖は第30代敏達天皇より出ていて、先祖には遣隋使の小野妹子がいた。母親の磯は鹿島神社(現茨城県鹿嶋市)の社人塚原家の生まれで、その先祖には有名な武芸者塚原卜伝(足利第15代将軍義昭に「一の太刀」の極意を伝授した)がいた。
 鉄舟とは号で、本名は高歩、通称鉄太郎といった。鉄舟は9歳のときから剣を学んだ。父が飛騨郡代として高山陣屋(現岐阜県高山市)在任中(11歳から17歳まで)は、井上清虎(父が江戸から呼び寄せた)について北辰一刀流を学び、国学と儒学を高山陣屋頭取の富田節斎に学んだ。また鉄舟は飛騨の地で書道を一楽斎に習い上達した(後に鉄舟は一楽斎の号を継承して1日500枚余を揮毫した)。
 江戸に戻ると鉄舟は神田の千葉周作の道場玄武館で北辰一刀流を学び、講武所(旗本・御家人子弟に剣・槍・砲術などを教授した)にも通って剣の腕を磨いた。当時の鉄舟は身長6尺2寸(約188cm)、体重28貫(約105kg)の巨漢で、江戸成田を日帰りで往復する健脚を持ち、酒豪で「ボロ鉄」という渾名が付いていた。
 20歳になると槍術の師匠山岡静山の門を叩いた。が、静山はいくばくもなく死去し、鉄舟は望まれて静山の妹英子(高橋泥舟の妹でもある)の婿になり山岡家を継いだ。山岡家は御家人(二百石取以下の将軍直属の家臣)で、百俵二人扶持の家柄で、丸に木瓜の家紋を用いた。山岡家の遠祖は第12代景行天皇末葉の大伴家で、大伴家には万葉歌人で参議などを歴任した家持もいた。その大伴の分家、伴家より分かれたのが山岡家で、6代目景友は織田信長に仕え、信長を本能寺で倒した明智光秀の軍と居城の瀬田城(現滋賀県大津市内)で激戦を交えた。関が原の合戦では徳川家康に付き、近江国(現滋賀県)内で九千石を与えられ、旗本に列した。直系は絶家になったが、傍系が10家余りあった。
 鉄舟は文久2年(1862年)、27歳のときに講武所剣術世話役心得に任命された。義兄の高橋泥舟は同所槍術師範役、勝海舟は同所砲術師範役で、3人は没落していく徳川将軍家の15代目慶喜に側近く仕えたところから幕末の三舟と称された。
 翌文久3年2月に泥舟、鉄舟兄弟は新徴組(京都に上る14代将軍家茂警護が役目)結成にかかわり、泥舟が主管、鉄舟が取締役に任命された。新徴組から分かれた芹沢鴨(常陸国行方郡芹沢村出身)、近藤勇らは新撰組を結成した。
 慶応4年(1868年)4月(9月に明治に改元された)に徳川宗家(旧将軍家)の第16代目を継いだ家達は、5月に新政府より駿府藩七十万石を与えられた。藩庁の駿府城は始祖家康ゆかりの城であった。7月下旬、その駿府城へ、水戸城で謹慎中の前将軍慶喜が移った。鉄舟らも慶喜を護衛して駿府城に入った。翌明治2年(1869年)に新政府が全国の藩主に版図(土地)と戸籍(人民)を奉還させた。静岡藩(旧駿府藩)主の家達も版籍奉還を申し出ると、それ以降は同藩の藩知事という地方の一長官ということになった。鉄舟は同藩の参事に任ぜられた。同4年(1871年)の7月になると、藩を廃し県を置く廃藩置県が断行された。藩は265年間続いた徳川将軍家による幕藩政治の柱であった。新政府は幕藩政治の土台(版籍)と柱(藩)を解体して、中央(政府)集権の確立を図ったのだ。その一方では、版籍奉還、廃藩置県の断行によって、旧将軍家家臣(旗本・御家人)と、全国の藩の知藩事(旧藩主)およびその藩士総数189万2449人が失禄(失職)した。

山岡家家紋 丸に木瓜

 木瓜紋は山岡家の本家伴家、戦国大名の越前朝倉家、同織田家(信長)などが用いた。使用家は藤紋に次いで日本で2番目に多い紋である

※ 「広報うしく7月1日号」に益満休之助の記述をしたが、このほど鉄舟が開創した臨済宗国泰寺派普門山全生庵(東京都台東区谷中)よりお寄せいただいた『鉄舟居士の真面目』によれば「鉄舟が益満休之助に道案内を頼んだ」ようだ。


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