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あんパン考案者 木村安兵衛(四)

〜 そのあんパンを明治天皇に献上 〜

  牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

明治天皇「あんパン」を食す 〜木村屋ではその4月4日を「あんパンの日」に定めた〜

 第一二二代明治天皇が隅田川畔の小梅村(現墨田区)の旧水戸藩第十一代藩主だった徳川昭武邸(旧下屋敷)に行幸して、桜の花を見ることになった。その際、木村屋のあんパンを食することになった。これは宮内大丞として明治天皇に奉職する山岡鉄舟(安兵衛の妻ぶんの実弟・木村定助と朋友)らの献言により実現したようだ。
 「明治天皇へのあんパン献上」は木村屋にとって慶事であった。安兵衛は山岡宮内大丞職らと図り、「あんパン」の表面に塩漬けにした桜の花びらを飾って献上することにした。これは桜が日本国の花であることと、天皇家の京都御所正殿・紫宸殿(天皇が即位の大礼などを行う所)の白砂の南庭に植えられている左近の桜(右近の橘)にちなんでのことだった。桜の花びらは天皇家ゆかりの地、吉野山(現奈良県吉野郡吉野町。第九十六代後醍醐天皇をはじめ南朝系四代の皇居が置かれた所)の山桜を採取してくることにした。
 明治八年(一八七五年)四月四日の正午少し前、徳川邸(現隅田公園の一部)に蹕に続いて、明治天皇が聖駕(フランス式四人乗御料馬車)で宮内卿徳大寺実則、侍従長東久世通禧、宮内少輔杉孫太郎らを従えて行幸。昼の宴であんパンを食した。少し遅れて太政大臣(総理大臣にあたる)三条実美も加わった。(平成十三年に木村屋では記念すべき四月四日をあんパンの日として登録)
 翌五日の午後、皇后一条美子(昭憲皇太后)が別荘地・今戸町(現台東区内)の旧細川藩別邸に行啓。そこから隅田川堤の桜花を眺めた。還啓の際に細川家当主護久より鯉鯛やあんパンなどの菓子が献じられた。明治天皇と皇后美子があんパンを殊のほか好んだので、木村屋では御用達をすることになった。御用達は大正を経て昭和まで続いた。

明治天皇駐蹕之地・女化原

 明治二十二年(一八八九年)発布の大日本帝国憲法の第一章には「大日本帝国は万世一系の天皇が統治し、天皇は元首として統治権を総攬する」と定められていた。一方、天皇はこれより先の明治十一年(一八七八年)の参謀本部設置条例発布(軍人勅諭、大日本帝国憲法第十一条、元帥府条例にも定められた)により、大元帥(総大将)として「陸海軍を統率する」ことになっていた。
 明治十七年(一八八四年)当時、明治天皇・大元帥直属の陸軍を指揮・統率する参謀本部長(後の参謀総長)は山県有朋で、陸軍行政を掌る陸軍卿(後の陸軍大臣)は大山巌であった。山県と大山はフランス式からドイツ式への軍制改革を図っていた。主たる兵器、大砲もドイツのクルップ式鋼製大砲を採用した。このクルップ式鋼製大砲八門の性能をテストする実弾発砲演習が、陸軍近衛砲兵大隊によって、十一月二十七日から女化原(現牛久市女化町)において行われていた。明治天皇は大元帥として五千余りの将兵による大演習を天覧するため、十二月七日の正午少し前に陸前浜街道(旧水戸道中)が通る牛久村(旧牛久宿、現牛久町)に行幸、飯島宅を行在所に定めた。供奉者は陸軍中将・近衛都督(司令官)彰仁親王、同少将能久親王、近衛士官貞愛親王、参議山田顕義、侍従長徳大寺実則、宮内大輔吉井友実、内閣および宮内大書記官、侍従、侍医、近衛士官などであった。翌八日は曇天で寒さ厳しく、正午過ぎに明治天皇は行在所を発し、女化原に到着。女化神社宮司宅で休憩してから実弾を発砲する大演習の場に臨んだ。皇居に還幸したのは九日のことだった。

女化原において聖駕上から明治天皇・大元帥がクルップ式大砲の演習を天覧中(「史跡散策ー牛久町郷土史考ー」より)

明治天皇駐蹕之地碑(高松求氏宅付近)
明治天皇天覧の地に大正10年(1921年)に建立された。題字は大島健一陸軍中将(大正5年〜同7年まで陸軍大臣を歴任)、碑文は徳富猪一郎(蘇峰)

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