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作成日:2006/03/02


住井すゑとその文学の里(一)

〜牛久沼のほとり〜  牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

歴史と万葉の里・奈良県で誕生

 作家住井すゑは生涯、文学を通して、部落解放、生命の尊厳、反戦平和を訴え続けた(北条常久著風濤社刊「橋のない川住井すゑの生涯」より引用)。住井は33歳より95歳(平成9年)で逝去するまでの62年余、夫犬田卯の出身地、牛久沼のほとり(現城中町)を作家活動の場とし、代表作の「夜あけ朝あけ」、「橋のない川」を執筆した。住井はまた牛久沼を「牛久沼だより」、「随筆集牛久沼のほとり」などの題名題材にも採った。
 住井は明治35年(1902年)に奈良県磯城郡平野村大字満田(現田原本町)の農業と大和木綿製造業を兼業する住井家の三男三女の末子として生まれた。
 田原本町は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、北方に二上山と三輪山を望む。両山と南隣の橿原市の耳成山、畝傍山、天香久山の大和三山は万葉集(天皇が万世の末まで伝わるようにと編さんを命じた)に詠み込まれている。万葉集のよみ人の一人柿本人麻呂は、強力なリーダーシップを発揮した第40代天武天皇を神権化(現人神)して詠み込んだ。天武天皇の兄で第38代天智天皇は唐の百済侵略に危機感を抱き、強力な律令的中央集権国家体制を確立しようと大化の改新をはかって、百済へ援軍を派兵し、唐・新羅連合軍の侵略に備え防人に九州北辺の防備を固めさせた(また天智天皇は庚午年籍を作成した)。一方、大和三山の中央には大和朝廷・藤原宮(皇居)跡があり、付近に初代神武天皇を祭った橿原神宮と同天皇陵墓がある。田原本は五山に囲まれる歴史のある町だ。ちなみに万葉集東歌に常陸国出身の防人が「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(天皇の軍隊)に吾は来にしを」と、北九州のはてから故郷の山川を思い浮かべて詠んだ歌がある(万葉集に用いられたかなは国字の平仮名になった)。
 時代は隔てて幕末の万延元年(1860年)に沿海地方がロシア領になった。ロシアはその南端の地に軍港を建設し、市名をロシア語で「ウラジヴォストク(極東を征服せよ)」と名付けた。日本ではこれより先に水戸藩の第2代藩主徳川光圀がロシア脅威論を唱え、吉田松陰がロシアに対抗するため千島列島占拠論を張った。明治の新政府は日本と和親条約(安政元年・1855年)を結んでいながら、日本を含む極東侵略を企てるロシアへの防備を重視した。明治25年(1892年)2月にベルリンの日本公使館付武官福島安正陸軍中佐(のち大将)は帰途、ロシア・シベリア大陸を単騎で横断(情報収集のため)して488日目にウラジヴォストクに着いた。日清戦争終結後、日露の諜報合戦が激化した。その指揮および長期の戦略戦術を練っていた参謀総長川上操六陸軍大将と、後任の参謀次長田村怡与造少将(のち中将)は激務のため相次いで死去した(川上の死を知ったロシアは喜んだという)。ロシアの歳入は日本の約10倍、ロシア軍の兵力動員も日本軍の約10倍。ロシア軍はシベリア・東清(支)鉄道で満州(現中国東北部)に増兵を行い、明治31年(1898年)には中国から租借している旅順にトーチカの大要塞を構築した。これが日本の大きな脅威となった。人類の歴史は洋の東西、古今を問わず戦いの歴史である。戦いに敗れた百済王国、イスラエル王国(ユダヤ人は忍従と反抗そして流浪を繰り返し400万人がヒトラーに虐殺された)など数あまたの国名が世界地図上から消えたのも史実だ。
 住井が生まれた明治35年(1902年)の1月に日本はイギリスと軍事同盟を締結して対露戦の布石を固めた。が、日本政府と軍首脳は慎重に構えた。同36年に入ると新聞や対露同志会、学識経験者たちが「戦うべし」の主戦論を唱え大合唱になった。が、一部に反戦論があった。この年の11月に幸徳秋水と堺利彦が発刊した週間平民新聞第1号の「吾人は飽くまで戦争を否認す」だ。政府は翌37年2月4日の御前会議で対露開戦の決断を下した。戦いは500日に及び、陸海とも世界で最新の装備と、最大の兵力を動員した初めてのものだった。戦死者は日本軍8万6000余名、ロシア軍が5万余名。前線の満州で陸軍作戦の最高責任者として指揮を執った総参謀長児玉源太郎大将は、激務がたたって戦後急死した。(つづく)

(写真)武道館を一杯にして講演中の在りし日の住井すゑ

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