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作成日:2005/09/28

歴史 読み物 昔の牛久

牛久市文化財保護審議委員   栗 原   功    

茨城県初代知事 山岡鉄舟と牛久宿(4)

剣禅が一如であると悟った鉄舟

 剣術は第40代天武天皇(在位673〜686年)が国家危急存亡の秋に備えて、「武を愛し能く剣を撃つ」と文武両官の任務と定めたのが起源だ。その後、剣術は徐々に日本古来の神道の影響を受け、室町時代初期の塚原卜伝は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に千日参籠して神感を得、新当流を編み出した。一方、室町時代の末期に至ると、剣術の主たる流派は臨済禅宗の真理と結び付いた。江戸時代初期の臨済禅僧沢庵(柳生宗矩の師で沢庵漬けで有名)は「剣禅一如(真理は一体)」を説いた。宮本武蔵も沢庵の説に影響を受け、座禅を組み、仏像(不動明王)を彫った。慶長9年(1604年)、21歳の春、武蔵は京で吉岡一門との決闘に勝利し、その翌年諸国修行の旅に出た。江戸を経て水戸道中(街道)を出羽国(現在の山形・秋田両県)へ向かう途中、牛久宿を通って筑波山に登頂、「筑波山 葉山繁山繁けれど 打ち込む太刀は真の一刀」と自ら編み出した二天一流の極意を詠んだ。
 ところで鉄舟は宮内省の公務のかたわら剣術と座禅に精進した。明治13年(1880年)、この年に鉄舟は「無刀流」を編み出し、四谷仲町の自邸に道場・春風館を開いた。もう一方で鉄舟は、四禅僧に参じ、刻苦励精、京都五山第一の名刹・天竜寺の滴水和尚より「印可状」を授けられた。「剣禅一如(真理は一体)」を悟った鉄舟は、明治16年(1883年)に北豊島郡谷中村(現台東区谷中)に臨済宗国泰寺派普門山全生庵を開創した。
 これより先の明治11年(1878年)の3月に四谷仲町の鉄舟邸に「鉄舟が天皇の輔弼を誤り、西郷隆盛を死に追い込んだ」という一通の斬奸状が舞い込んできた。後に送り主の旧加賀藩士島田一郎らが度々、鉄舟邸を訪れて、政府首脳陣を罵倒するので、鉄舟は西郷の真意を十分説明し、彼らの偏見を解くべく努めたのであるが、その甲斐もなく彼らは2カ月後に内務卿大久保利通を刺殺するに及んだ。このように鉄舟の身は幕末維新の動乱の中で常に危険にさらされていた。が、鉄舟は生涯、人を斬るのに真剣(刀剣)を抜刀したことはなかった。
 明治17年(1884年)に華族令が発令されて、旧公家、旧藩主に公・候の爵位が、薩長中心の明治維新勲功者83名に伯・子・男の爵位が、それぞれ授けられた。爵位授与に際し、鉄舟が宮内省華族局に出頭して、「勝海舟に功名を譲ってきた」と鉄舟居士の真面目に記述されているように、海舟が伯爵、鉄舟が子爵であった。
 直心影流免許皆伝の海舟も座禅を組んで23歳のときに「剣禅一如」を悟った。海舟と西郷隆盛は鉄舟を「無我無私」と評した。その鉄舟が幕府へ最初に「大政奉還(政権返上)」の建白を行った件、自分が結成した尊王攘夷党に土佐の坂本竜馬らが入党していた件などを語らなかったため、これらが歴史上に記録されていないので、ここに記しておく。〜ペリー来航によって水戸学の尊王攘夷論が全国各地で湧き起こった。尊王攘夷の造語は藤田東湖であった。藤田は水戸藩士にして水戸学の領袖、西郷隆盛が心酔した人物だ。水戸学の本領、尊王攘夷論は、敬幕精神(幕府への)をもって、天皇のために攘夷(外国人を討ち払う)を行うことであった。当時、尊王攘夷論は水戸学本来の趣旨から逸脱して反幕・倒幕のスローガンに利用されていた。が、尊王論は明治維新後の天皇政治の思想的支柱になった。ペリー来航6年後の安政6年(1859年)、この年、井伊大老が断行する安政の大獄の嵐吹き荒れる中で、挙国一致して国難(米英仏露などの侵略)に対処せねばならないという政治理念を持った24歳の鉄舟は、幕府へ「大政奉還(朝廷へ政権を返上すること)建白書(幕政の限界を悟って)」を提出するその一方で、発起人代表になって尊王攘夷党(水戸藩士の住谷寅之助、薩摩の益満休之助、土佐の間崎哲馬と坂本竜馬は幹事)を結成した。文久2年(1862年)になると別勅使三条実美より幕府に「攘夷督足」があった。これに対して大目付の大久保一翁(旗本五百石取で海舟を抜擢。後に子爵)が「大政の奉還」も一つの方策と説いた。大久保は大政奉還論を、現実を踏まえた「公議政体論」にまとめ、自邸に時々来る坂本竜馬に示した。慶応3年(1867年)に竜馬が公議政体論をもとにして書いた「船中八策」を土佐藩に建白すると、同年、同藩では船中八策に手を入れて幕府に「大政奉還建白書」として提出した。同年10月14日に討幕の密勅(薩長両藩へ秘密裡に手渡された幕府追討令)が発令され、この日徳川第15代将軍慶喜が大政の奉還を行った。鉄舟が幕府に大政奉還建白書を提出した8年後のことであった。(完)
(右写真)
山岡鉄舟の筆による黒須嘉市郎碑

<明治15年(1882年)建立>
牛久宿・牛久村(現下町区)の久宝山観成院境内に建つ
 黒須嘉市郎(牛久宿本陣佐野家に生まれる)は、この地で提灯座という寺子屋を開いた。黒須は山岡鉄舟とも交流があった。なお、提灯座は明治8年(1875年)に公立小学校、後の牛久小学校になった。初代校長は黒須嘉市郎で小川芋銭(本名茂吉)もここで学んだ。

※ 次回11月1日号からは「南北朝・室町・安土桃山時代前期の牛久領主岡見家の興亡」を連載します。


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