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歴史 読み物 昔の牛久

あんパン考案者 木村安兵衛(5)
そのあんパンを明治天皇に献上

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

木村屋の暖簾分けと家訓  創業136年を支えてきた

 日本の商人のタイプはおおよそ、東北・関東商人が「正直正路を貫き」、特に東京の商人には「暖簾と意気を尊ぶ」気質があって、中部商人が「封鎖的だが団結力が強く」、京都商人が「石橋を叩き」、大阪商人が「自力で粘り抜く」というところだ。その商家では、俗に「親苦・子楽・孫乞食」といわれるように三代続くことが極めて困難とされてきた。そうした背景があって、江戸時代の初めに財を築いた豪商たちが永代存続を図るため、武家をまねて家訓(儒学の精神に則って定めた)、家法を定めた。
 ところで明治16年(1883年)に木村屋の近所で生まれた人の話がある。それによれば「明治27、8年の日清戦争のときに、木村屋では軍隊の携行食だった乾パンとビスケットを大馬力で製造し、大いに儲けたということだが、その売上金でもあるのか、娘のお春ちゃんが重そうな風呂敷包みをもって銀行へ通う姿をちょいちょい見掛けた」という。
 木村屋のあんパンは「へそパン」の愛称で、作っただけ売れた。現在銀座総本店だけで1日平均6千個売れるそうだ。木村屋では今年創業136年を迎えたが、木村屋を136年支えてきた柱に暖簾分けがあった。その暖簾分けとは、秘伝のあんパン製造に従事した丁稚に、一人前になったら木村屋何々店という店を出させるというものだった。そしてそこの店でも、あんパン製法の秘伝を守り通したのだ。暖簾分けによる店舗総数は明治30年(1897年)に東京市中で28店あった。時代が下って昭和40年(1965年)代には全国で300店に及んだ。
 木村屋を136年支えたもう一本の柱に次のような家訓があった。

〔四つの幸福〕


銀座の木村屋総本店(同店提供)
1.御客様の幸福(お客様に美味しく食べて喜んで頂き、心身共に健康な身体になって頂くことである)
2.パートナーの幸福(パートナーの人が喜んで商売が出来、共存共栄が図れることである)
3.従業員の幸福(従業員が勤労の喜びと物質的喜びを得られることにより、個人の精神的幸せを得られることである)
4.会社の幸福(お客様とパートナーと従業員の幸福を造る種子をまく畑が、豊かに広がっていくことである)

〔四大目標〕

1.最高製品
2.最高サービス
3.最高能率
4.最高賃金

〔四つのテスト〕

1.それは本当にお客様の幸福になることか
2.それは本当に従業員の幸福になることか
3.それは本当に会社の幸福になることか
4.それは本当に自分の幸福になることか
すべての判断はこれらに照らしてやろう。

水戸城下で創業した商家の家訓

 話は変わるが、「先憂後楽(天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)」という四字一句がある。これは中国の北宋時代の副宰相范仲淹(九八九〜一〇五二年)が儒学の精神に則って、政治家の心構えを説いた(岳陽楼記に収録されている)ものだ。以来数多の為政者が範としてきた。水戸黄門こと水戸藩第二代藩主徳川光圀(1628〜1700年)は、江戸・小石川の藩邸に造った庭園に「後楽(天下の楽しみに後れて楽しむ)園」と名付けた。光圀没後の享保九年(一七二四年)に水戸城下で創業した某商家の家法は「世の中は丸く丸くと云い伝う人見の人ぞ誠なりけり」と定められていた。(完)
※ 次回からは、引き続き栗原功氏執筆による「茨城県初代知事山岡鉄舟と牛久宿」を掲載する予定です。

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