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新連載 茨城県初代知事 山岡鉄舟と牛久宿(1)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

静寛院宮の前将軍慶喜助命嘆願

〜牛久藩主山口弘達も嘆願〜

 慶応3年(1867年)12月9日をもって明治天皇による王政が復古した。が、前徳川第15代将軍慶喜はこの新政府を認めず、大坂城中で、自分が15歳の明治天皇輔佐役の摂政と議長(藩主議会設置)を兼務するという構想を描きながら政権の奪回を企てていた。翌慶応4年(9月8日に明治に改元)の正月4日にその慶喜の命令で会津・桑名両藩兵らが動いたが、鳥羽・伏見(京都郊外)で新政府軍に敗退。慶喜は6日の夜に大坂城を抜け出し、軍艦に乗って江戸・品川沖に戻り、出迎えの御家人山岡鉄舟の先駆けで馬上江戸城に入った。
 一方の新政府では、総裁(総理大臣)の有栖川宮熾仁親王が7日夜、小御所(京都御所内)に公卿、諸藩主を集め、「慶喜は朝廷を欺く大逆無道の敵」と断じ、その追討令(討ち取ること)を出した。
 当の慶喜は新政府への対応を静寛院宮に頼んだ。宮は第120代仁孝天皇の第8皇女として生まれ、和宮親子内親王と称していたが、徳川第14代将軍家茂に降嫁、未亡人になると薙髪して、江戸城西の丸に住み、この年22歳だった。宮は早速、新政府へ直筆の慶喜処分寛大を求めた嘆願書を侍女の土御門藤子に届けさせた。宮の嘆願により、新政府参与の岩倉具視が、慶喜助命の内旨を発した。そのころ小田原藩主大久保忠礼(慶喜とは血族)や牛久藩主山口弘達も新政府へ、慶喜処分寛大の嘆願を行っている。

慶喜特使の鉄舟が西郷隆盛と会見

 慶喜は直属の家臣である旗本・御家人に、新政府に無抵抗恭順を厳守しろと命じた。そして慶喜自身も2月12日の早朝に江戸城を出て、上野寛永寺の子院大慈院に入った。慶喜の身辺警護は旗本・御家人の中から選抜された精鋭の士、70余名があたっていた。その精鋭隊の主管が高橋泥舟で、頭取が鉄舟であった。
 ある日の早朝、鉄舟(33歳)は義兄にあたる泥舟(34歳)を通して、慶喜(32歳)に大慈院の一室に呼ばれ、新政府軍の本営に行って、参謀の西郷隆盛(42歳)と江戸城明け渡しに関する交渉をしてくるよう命じられた。同席していた旧幕府陸軍総裁勝海舟(46歳。4年前に勝は西郷と会い倒幕の好機だと吹き掛けた)に、道案内に益満休之助(西郷の側近)を連れて行けと言われ、3月6日に鉄舟と益満は馬で出立した。東海道の六郷(現東京都大田区)に陣を張る西郷側近の篠原国幹隊を過ぎ、長州の部隊に出会うと益満が「薩摩のものでごわす」と、そこを難なく通過した。が、その益満が腹痛を起こしたので三島宿(現三島市)に残し、西倉沢村(現静岡県庵原郡由比町)の西はずれ、薩 峠の登り口に差し掛かった鉄舟は新政府軍に銃撃された。鉄舟は近くの宿屋藤屋の主、松永十郎平の協力で漁師に変装して、間道を抜け、舟で江尻港(現清水港)の次郎長の家へ送ってもらった。9日に府中宿(現静岡市)の新政府軍本営に到着した鉄舟は西郷と会見、勝・西郷会談の段取りを付けた。

前将軍慶喜が牛久宿本陣で昼食

 新政府より慶喜に4月11日を期限に水戸城中で謹慎するようにとの達しが届いていた。その11日早朝、慶喜は大慈院を立った。前幕府若年寄浅野氏祐ら旗本数名と、西周、新門辰五郎とその子分が付き従い、泥舟ら精鋭隊士百余名が護衛した。この日は水戸道中松戸宿に泊まった。そこに深夜、鉄舟が江戸城と武器の新政府軍への引き渡しが無事済んだとの報告を持ってきた。これより鉄舟も慶喜護衛の任に就いた。翌12日は藤代宿に泊まった。13日に慶喜一行が牛久宿本陣佐野家で昼食中、出迎えの水戸藩奥祐筆頭取長谷川作十郎らに、慶喜の実兄で水戸藩主の徳川慶篤(37歳)死去を告げられた。(つづく)

山岡鉄舟のピストル(静岡県庵原郡由比町提供)


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