作成日:2005/02/28

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歴史 読み物 昔の牛久


あんパン考案者木村安兵衛(1)

そのあんパンを明治天皇に献上          牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

田宮村の長岡家に生まれる  〜川原代村の木村家の婿養子〜

 初代将軍徳川家康以来、幕府の治国の要諦は儒学の精神「民は国の宝、農は立国の大本」だった。その幕府が倒れて、新政府が成立した明治時代の初めに「あんパン」を考案して製造・販売したのは、「木村安兵衛」であった。安兵衛は、第十一代将軍家斉治政下の文化十四年(一八一七年)に河内郡田宮村(現牛久市田宮町)の農業を営む長岡家に生まれた。田宮村は水戸道中(街道)牛久宿の北に接する小さな宿であった。
 二男の安兵衛は二十七歳ごろに、下総国北相馬郡川原代村(現龍ケ崎市川原代町)の農業木村家(戸主・安衛門)に婿入りして、安兵衛を名乗った。妻はぶんといった。木村家は、丸に隅立て四つ目結の家紋を用い、その本家は苗字帯刀(苗字を名乗り刀を腰に付けること)を許される家柄だった。
 木村家の系図の概略を記しておく。平安時代初期の第五十九代宇多天皇(在位八八七〜八九七年)の孫、左大臣雅信(娘倫子は太政大臣藤原道長の妻)が源の姓を与えられた(この系統は宇多源氏といわれる)。雅信の四代後の成頼が近江国(現滋賀県)に下向、孫の経方が琵琶湖の東、蒲生郡佐々木荘小脇(現八日市小脇町)に住み、佐々木荘園下司職と沙々貴神社神官を兼務し、佐々木の姓を名乗った。経方の曾孫定綱とその子信綱は、治承四年(一一八〇年)の源頼朝(この源は第五十六代清和天皇から出た清和源氏)挙兵に参加した功により、佐々木家は代々近江国の守護職に任ぜられた。佐々木家は、丸に隅立て四つ目結紋を用い、子孫は全国に及んだ。その中には、朽木、六角、京極と称した名ある武家があった。信綱五代の子孫氏頼は足利尊氏に与し、建武二年(一三三五年)に山城の観音寺城(現在は蒲生郡安土町と神崎郡五個荘町に帰属する)を築城した。一方、定綱の弟行定の玄孫成綱は蒲生郡の木村に住み、木村を名乗った。木村家は本家、観音寺城主佐々木家の有力家臣で、城下に屋敷を構えていた。この系統から分かれた者が、東国(現在の関東)に移り、さらにその子孫が川原代村に土着した。戦国時代、木村家は牛久城主の岡見家に仕えた。(つづく)
木村安兵衛肖像 (木村屋総本店提供)
木村安兵衛生家 (史跡散策〜牛久町郷土史考〜より) 木村家家紋
丸に隅立て四つ目結
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