作成日:2005/01/30


歴史 読み物 昔の牛久


高杉晋作と牛久宿(5)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

牛久宿の旅籠に一泊した高杉晋作

 万延元年(一八六〇年)の八月二十八日に高杉晋作は、江戸城桜田門外の長州藩邸を出立した。見送りの桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らと千住回向院の吉田松陰の墓に詣でて、そこで彼らと別れた。肩に竹刀を一本担ぐ晋作は、この日は水戸道中新宿(現東京都葛飾区)の旅籠(旅館)に泊まった。晋作は旅日誌『試撃行日譜』をつけていた。萩市郷土博物館提供のマツノ書店発行・高杉晋作資料第二巻(編者一坂太郎)収録の試撃行日譜には、翌二十九日に牛久宿に泊まったと記されている。旅籠の屋号の記録はない。次にその件を記しておく。
「宿牛久駅、々々々山口筑前守候領地也、人家比他駅最衰微、今日之世、小藩政事不至者宜也、此世雨頻降、同宿旅人皆踉 認雨具、家奴云、秋時雨、至夜必催、明朝放晴」。右イラスト:高杉晋作(萩市郷土博物館提供)

晋作は笠間の水戸学者加藤桜老を訪ねた

 晋作の目的地は笠間(現茨城県笠間市)であった。笠間の地は日本三大稲荷の一つに数えられる稲荷神社の門前町として開けた。鎌倉時代には山城の笠間城が築かれた。そのころ笠間の領主稲田頼重に招かれた親鸞は別格本山西念寺を建てて、浄土真宗を開いた。笠間の南、板敷山大覚寺(現新治郡八郷町大増)は親鸞と弁円の出会いの場として有名だ。一方の笠間城には殿中刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩の祖父長直が播州赤穂(現兵庫県赤穂市)へ国替になるまでいた。また、笠間の信楽焼から派生した笠間焼も有名だ。
 晋作は9月2日に笠間に着き、翌3日の朝に笠間城城南に居を構える水戸学者加藤桜老(有隣)を訪ねた。桜老は晋作を筑波、加波など十三山が一望できる十三山書楼二階の書斎に招き入れた。晋作この年21歳、桜老は49歳であった。桜老は水戸城下生まれだが、7歳のときに外祖父に当たる笠間藩士加藤惣蔵の養子になった。藩校の時習館で文武習得後、17歳で藩主牧野貞一の中小姓役に任ぜられた。19歳の折、水戸城下に出て会沢正志斎と藤田東湖に水戸学を学び、次いで江戸に出て昌平黌(幕府の学校)に学び、京橋の国学者平田篤胤の家塾でも学んだ。が、笠間藩の藩政改革を図ろうとして失敗、40歳で隠居の身になった。桜老が籠もる十三山書楼には吉田松陰門下の赤川淡水(佐久間佐兵衛)ら天下の志士が数多訪れた。晋作の桜老宅訪問は赤川淡水の世話のようだ。桜老と晋作は朝から晩まで詩を談じ、国事を論じて尽きることなかった。晋作は十三山書楼に次の和歌を書き留めて立ち去った。〜今宵こそいづこの里を宿とせむ 筑波の峯にかかる白雲〜。
 二年後の文久2年(1862年)5月に晋作は幕府使節団の一員(長州藩代表で)として千歳丸で清国(中国)上海に渡った。その上海は英、米、仏に半植民地化されていた。晋作は清国の国防政策の誤りを見て、日本の国防強化の急務を痛感しながら帰国した。
 この年の9月に、晋作は再び十三山書楼に桜老を訪ねた。長州藩の藩論統一等の相談に来たのだった。「日本の国策を定めるために、まず各藩の藩論を定める教育を」が桜老の持論であった。江戸の長州藩邸に戻ると晋作は長州藩の藩論統一の布石に桜老や、長州藩の村医者の子・村田蔵六(大村益次郎に改める)らの人材を召し拘えるように政務役の周布政之助に進言した。晋作の世話で長州藩に仕官した桜老は、藩校明倫館で水戸学などを教えた。かたわら山口郊外で詠帰塾を開くと、三浦梧楼(奇兵隊士でのちの陸軍中将・政界の黒幕)、尾崎行雄、岡倉天心らがその門をたたいた。明治維新後の桜老は新政府の太政大臣(最高長官)三条実美のもとで教育制度の制定にかかわり、「大学小学建議」を行い、学制の発布に寄与するところ大であった。(つづく)
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