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作成日:2006/05/31


住井すゑとその文学の里(4)   牛久沼のほとり 

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

文学と出会いその文学への憧れ

与謝野晶子、田山花袋、島崎藤村、長塚節らの作品との出会い

 住井すゑ11歳、平野西尋常小学校4年生になった。すゑには9歳上の辰蔵という兄(すぐ上の兄で三男)がいた。3人の兄のなかで辰蔵は、すゑが一番慕っていた。辰蔵は、大阪船場(大阪中央部の問屋街)の商家に丁稚に出ていて、そこの主は文学好きで辰蔵はときどき、本を買いにやらされた。その読み古した本は辰蔵ら使用人に与えられたが、辰蔵はすゑに、春陽堂の「新小説」、博文館の総合雑誌「太陽」、「冒険世界」、「文章世界」などを送ってよこした。
 明治45年(1912年)7月30日に明治天皇が崩御、皇太子嘉仁が践祚して「大正」に改元された。
 大正2年(1913年)3月、5年生の住井は卒業式で送辞を読んだ。本来は男子児童の役割であったが、住井の成績が首席だったからだ。卒業式も首席で迎えた住井は6年生を代表して答辞を述べた。
 ところで住井家は農業を主としていたが、副業に織物業(大和絣)を営んでいた。副業収入のある住井家は、平野村満田(現田原本町満田)では、専業の農家より裕福であった。その住井家では、平野村満田からさほど遠くない北葛城郡高田町(現大和高田市)に進出していた大手紡績工場の影響により織物業を廃業することになった。
 そんな住井家の経済事情により、すゑは高等女学校への進学を断念。隣町の田原本技芸女学校(裁縫学校)に通った。自宅から一里(約4km)以上の道程を裁縫箱と長い物差しを背負っての通学であった。帰途住井は、田原本町内の書店にたびたび立ち寄った。その書店で住井は与謝野晶子の作品「砂の塔」に出会った。砂の塔は博文館が発行(大正5年、1916年)する「文学世界」に連載されていた。与謝野晶子は「人間の自由な感情を重視する」ロマン主義派といわれた。
 当時の日本の文壇は、自然主義派の島崎藤村(差別と青年の苦悩を描いた「破戒」などの作品)、田山花袋(「蒲団」などの作品)、徳田秋声らが主流になっていた。「人生や社会の現実をありのまま描く」のが自然主義派の文学であった。
 住井は、藤村、花袋、秋声らの自然主義派文学に傾倒していった。
 住井は、田原本の書店で、長塚節の「土」にも出会った。節は、明治12年(1879年)に茨城県岡田郡国生村(旧結城郡石下町、現常総市)で生まれた。節は3歳のころに百人一首の何首かを暗唱したといわれている。長塚家は大地主で、節の父親源次郎は村会議員、郡会議員、さらに県会議員(明治40年10月から同43年7月まで第20代議長)などの名誉職を歴任している。市内杉山には節が「鬼怒川を夜更けてわたす水棹の遠く聞えて秋たけにけり」と鬼怒川を詩情豊かに読んだ歌碑がある。「土」は、朝日新聞に連載された。連載は主筆の池辺三山と、文芸欄主宰の夏目漱石の推挙で、明治43年(1910年)6月13日から151回に及ぶ。同45年(7月、大正に改元)には漱石が序文を寄せて、春陽堂より上梓された。それまでの文壇は都会人の退廃した生活を題材にしてきた。「激しい西風が目に見えぬ大きな魂をごうっと打ちつけて又ごうっと打ちつけ…」に始まる長編小説「土」は、鬼怒川のほとりの小作農民の日常生活が精細に描写されていて、文壇にも、住井の目にも新鮮に映った。
 住井は、節とその作品にも刺激され、自分も未来を文学に託したい、と憧れた。その「夢」を実現する道は、自立して、自分の生活を自力で立てなければならない。当時、農村の娘が自立するといえば、尋常小学校の訓導(教員)になる以外ない。師範学校(教員を養成した学校)を出ない住井の場合、その受験資格は准訓導(代用教員)の経験がなければならなかった。大正7年(1918年)、16歳の住井は、田原本技芸女学校を中退して、隣村の多村立尋常小学校の准訓導になった。(写真)兄住井辰蔵と(奈良で)
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