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作成日:2007/03/01


歴史・読み物 昔の牛久

住井すゑとその文学の里(十三) 〜牛久沼のほとり〜

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

全国水平社宣言と住井

 大正11年(1922年)3月3日に全国水平社創立大会が京都において開催された。「住井すゑの世界」によれば、住井はその宣言文を月刊誌「種蒔く人」で読み、深い感動を覚えるとともにいつかは部落解放運動に参加しなくてはならないと思ったという。

全国水平社創立大会宣言(一部)

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱しめ人間を冒とくしてはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。

 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光あれ。

扶桑社刊「新しい歴史教科書」より引用

加藤海相の「日本は米国との戦争を避けるを必要とす」

 全国水平社創立直前の2月までワシントンで開催されていた主要9カ国会議で、海軍軍縮条約が締結された。同会議の日本首席全権大使は加藤友三郎海軍大臣であった。
 加藤友三郎は、文久元年(1861年)に広島藩(芸州藩)下級藩士加藤七郎兵衛の三男として広島城下で生まれた。創設間もない海軍へと進んだ加藤は、明治38年(1905年)5月、連合艦隊参謀長として東郷司令長官を補佐し、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅した。日露戦争はこの年の9月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によりポーツマスで講和の条約締結となった。その結果、日本はロシアより満州(現中国東北部)における権益譲渡などを受けた。
 翌明治39年に米英両国が日本に満州の市場開放を強く要求してきた。さらにその翌明治40年にルーズヴェルト大統領は日本を仮想敵国に定め、「オレンジ作戦(37年後の日米開戦の遠因になった)」を立てて、同年12月に日本へ向けて大艦隊(戦艦16隻)出帆を命じた。同艦隊が母港出帆直前多数の開戦におびえる脱走兵が出た。フランスの新聞は日米開戦心至と煽った。
 事前にこうした動きを察知していた日本側では、山県有朋元帥が明治39年10月にアメリカを仮想敵国に定めた「帝国国防方針」を策定して、翌明治40年4月に大元帥・明治天皇の裁可を受けていた。
 明治41年10月、アメリカ大艦隊は雄姿堂々と久里浜(現横須賀市)に投錨した。日本はアメリカの砲艦外交にただ屈服せざるを得なかった。
 この年に加藤友三郎は、明治維新以来薩長出身者が政府および陸海両軍の要職を壟断する中で中将に進級し、大正4年(1915年)8月には大隈内閣の海軍大臣(同月大将に進級)に就任した。海相として加藤は、アメリカを仮想敵国に定めてある帝国国防方針に基づいて八・八艦隊(戦艦8隻、巡洋艦8隻)建造に着手し、アメリカのグアム・フィリピン両海軍基地大拡張工事着手に対しては、小笠原諸島(父島・母島・硫黄島)に要塞を築いて対抗した。
 日米の軍拡競争はここに極に達し、緊張が高まった。アメリカ大統領ハーディングは主要9カ国海軍軍縮会議開催に日米軍拡競争の打開を求めた。
 「会議では議論せず、意見もむやみに述べないが最後にいつも的確な結論をつける」加藤海相が原首相より首席全権大使に任命された。加藤全権大使は本国の井出謙治海軍次官に「国防は軍人の占有物にあらず。日本は米国との戦争を避けるを必要とす」との伝言書を送り、アメリカ全権大使ヒューズ国務長官提唱の主力艦保有量を米・英・日の比率五・五・三縮減条約締結に踏み切った。
 この年の6月、元老松方正義が加藤海相を首相として時局収拾の最適任者であると奏薦、加藤海相に大命降下(天皇より内閣総理大臣になることと各国務大臣たるべき者を奏薦すること)があった。首相兼海相に就任すると加藤は、まず八・八艦隊建造を八・六艦隊建造に変更して縮減、ついで陸軍三個師団縮減を図り、これらの軍縮によって出た余剰金を義務教育強化費に振り向けた。が、加藤は病魔に侵され翌大正12年の8月24日に死去(前日には元帥の称号が下賜されていた)。新聞各紙は共通して「吾人は加藤子(子は子爵を指す)の逝去が国家の重大損失たるを痛感せざるを得ない」と論評した。

加藤友三郎海軍大臣

ワシントン軍縮会議出席時の加藤友三郎海軍大臣
- 広島市在住田辺良平著「わが国の軍備縮小に身命を捧げた加藤友三郎」春秋社刊より転載 -


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