作成日:2005/02/14


歴史 読み物 昔の牛久


高杉晋作と牛久宿(6)最終回

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功  

長州藩政を掌握して幕府軍を破った晋作

 文久2年(1862年)7月に長州藩主の毛利敬親は、久坂玄瑞ら尊王攘夷激派の突き上げによって、それまでの藩是・公武合体(孝明天皇と幕府の融和策)から、尊王攘夷に大転換した。以後、久坂ら長州系尊王攘夷激派は京都の政局も牛耳った。また、彼らの仲間は京都市中で、井伊大老に与した者や公武合体派の者を次々と暗殺した。
 翌年の2月22日の夜には、等持院に安置されてあった足利尊氏・義詮・義満の3代の将軍の首が引き抜かれ賀茂河原に晒された。これは別の尊王攘夷激派に属する会津藩脱藩の大庭恭平、牛久藩領の小茎村(現つくば市小茎)の建部健一郎らが起こした事件だ。
ところで晋作は、翌3月の上旬に京都の学習院(公卿子弟の学問所)御用掛を命じられた。が、晋作は着任してすぐに長州・京都藩邸詰めの周布政之助に「10年間の賜暇(休暇)」を願い出、許可されると同月の16日に髷を落とし、丸坊主になり、東行と号し、長州に戻って妻雅子と師松陰の生家近くに閉居した。京都の久坂らは過激派公卿を通して孝明天皇に攘夷の実行日を5月10日と決定させ、上京してきた徳川第14代将軍家茂に誓約させた。さらに久坂は長州に戻り、5月10日に馬関(関門)海峡を通る米船ペンブローグ号目掛けて攘夷(外国人を討ち払う)第1弾を撃ち放った。が、英仏蘭米連合艦隊による報復攻撃に長州藩は大きな被害を出した。晋作は藩主に呼び出された。そして4カ国軍艦砲撃の防禦のため奇兵隊創設を命じられた。
 一方、政局の中心地、京都の治安と幕府の権威回復を図るために設けられた守護職に会津藩主の松平容保が任ぜられていた。藩祖保科正之の遺訓「敬神崇祖(天皇を尊崇し将軍家に絶対服従)」を旨とする容保は足利将軍木像梟首事件摘発を大義名分にして、配下の新撰組(芹沢鴨、近藤勇ら)に尊王攘夷派の志士を取り締まるよう命じた。容保は、攘夷は賛成していたが、倒幕に反対であった孝明天皇の信頼が厚く、同年の8月18日に薩摩藩の援兵もあって7人の過激派公卿と在京の尊王攘夷派一掃に成功。翌元治元年の7月には流罪を許され、幕府側に立つ西郷隆盛が指揮する薩摩藩兵らとともに、京都の勢力回復を狙う久坂の長州軍を、御所の禁門で撃退、24歳の久坂を自刃に追い込んだ。
 この年、勝海舟は幕府軍艦奉行を罷免(6月の池田屋事件に操練所塾生が連座した責任で)された。その勝は9月に西郷隆盛と神戸で密談して、幕府機密を漏らした上で薩摩藩、長州藩などが共和政権を樹立して外国を討ち払える軍備を整えるよう説得をした。
 明けて慶応元年(1865年)の正月、晋作は奇兵隊以下の諸隊2000人余を率い、幕府に恭順する長州藩の軍と戦い、これを破り、藩政の実権を奪取した。翌2年になると晋作のもとに幕府側から討幕に転じた西郷隆盛が、手を組みたいと前水戸藩士斉藤佐次右衛門や黒田清隆を派遣してきた。晋作は、桂小五郎(木戸孝允)らと協議を重ね、藩主が決断したので、京都において土佐の坂本竜馬立ち会いのもとに、薩摩藩と討幕軍事同盟を結んだ。さらに6月には総督として長州藩海軍の采配を振るって、幕府海軍を撃退した。が、翌年の4月に重い病の床で「おもしろき こともなき世を おもしろく」と詠み、27年と7カ月余の短い生涯を閉じた。
 晋作は生前、奇兵隊などの戦死者の御魂を祀る招魂社(下関市の桜山神社)を建てた。後に晋作の意を汲み取った陸軍創設者・大村益次郎(晋作の推挙で長州藩に仕えた)が明治2年(1869年)に、倒幕派殉難者と政府軍戦没者を東京・九段坂上に東京招魂社として祀った。これが靖国神社に改称された。
 それに晋作は数多の漢詩、俳句、短歌を詠んだ。都々逸節も好み、「三千世界の鳥を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」という詞もつくった。都々逸節の元祖都々一坊扇歌は久慈郡磯部村、現在の常陸太田市磯部で生まれた。扇歌は「菊は栄えて 葵は枯れる 西に轡の 音がする」という都々逸を残して嘉永5年(1852年)に没した。生誕地の常陸太田市では毎年、都々逸全国大会を開催している。(完)

イラスト) 崙書房刊 総合郷土研究茨城県より

※ 次号からは、引き続き栗原功氏の執筆による「あんパン考案者 木村安兵衛」を連載します。

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