作成日:2005/01/14


歴史 読み物 昔の牛久


高杉晋作と牛久宿(4)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

高杉家は甲斐武田家の系統

 高杉家は本名を武田と称し、家紋に武田菱を用いているところから、甲斐国(現山梨県)の清和源氏(第五十六代清和天皇の子孫)武田家(後に信玄が出る)の系統だ。鎌倉時代末期、安芸守護職の武田信宗は銀山城(現広島市安佐南区)を築いた。信宗の子孫元繁は、天文十年(一五四一年)に尼子三万の大軍を迎え撃った郡山城(現広島県高田郡吉田町)主毛利元就(源頼朝側近大江広元の子孫)に攻められ、元繁は討ち死にし、銀山城は落城した。元繁の孫信実は若狭国(現福井県西南郡)へ移ったが、その一族が備後国三谿郡高杉村(現広島県東部の三次市高杉町)に住んだ。後に高杉姓を名乗り、広島城下に移って毛利家に仕えた。主君輝元(元就の孫)は関ヶ原の合戦後、徳川家康に隠居を命じられ、所領の八カ国が没収された。輝元の子秀就が周防・長門二国を与えられ、萩に移った。高杉家もこれに従って萩に移った。

吉田松陰と高杉晋作の師弟関係

 高杉晋作は天保十年(一八三九年)に本州西端の日本海を臨む萩城下(現山口県萩市)の菊屋横丁という中級武家屋敷の一角で生まれた。高杉家は百五十石の家格で、現代に例えれば県の課長級に当たろう。晋作は幼少のころ、私塾の吉松塾で秀才久坂玄瑞と机を並べ、習字や句読(漢文などの読み方)を学んだ。十四歳で藩校明倫館に入り、儒学(四書・五経)や兵学を学び、剣術の修業に汗を流した。十九歳(安政四年・一八五七年)のときに吉田松陰の松下村塾の門を叩いた。松陰は長州藩より禄五十七石を食む明倫館兵学師範だったが、当時は幽居の身であった。塾生には長州藩士の前原一誠(四十七石)、同久坂玄瑞(二十五石)、同足軽の品川弥二郎、同中間の伊藤俊輔(博文)と山県狂介(有朋)、それに町人の子もいた。松陰が通算で二年近く開いた松下村塾は、政治の思想を教え、それを実践させる場であった。松陰の政治思想は水戸学で固まっていた。水戸学の本領「天朝(天皇)の天下」具現を目指し、日本がロシア、米、英などの列強に侵略され、その植民地にならないためには北はカムチャッカ半島、南はルソン島まで占領し、洋式による軍備の強化を図った上で開国すべきだと熱い思いで説いた。が、井伊大老が第百二十一代孝明天皇を蔑ろにして、しかも米国総領事ハリスの恫喝に屈服した形で開国(日米修好通商条約締結)すると松陰は、「征夷(将軍を指す)は天下の賊なり」と、長州藩主毛利敬親に討幕の建言を行った。藩主頼るに足らぬと悟ると、「草莽崛起論(武士以外の人々の立ち上がりを促す)」を唱えた。当時、松陰が京都に住む尊王攘夷の草莽の志士梁川星巌に書いて送った討幕論が、安政の大獄を断行する井伊大老の手に渡ったため、三十歳で江戸・小塚原で斬首の刑に処せられた。

丙辰丸で江戸に着いた高杉晋作

 万延元年(一八六〇年)の正月、二十一歳の晋作は雅子という名の妻を迎えた。同年三月には井伊大老の暗殺があって、四月に晋作は長州藩海軍所有の軍艦丙辰丸(洋式木造帆船)への乗船を命じられた。二カ月後に江戸湾に到着した。七月にその丙辰丸艦上で「成破の盟」が結ばれた。これは幕政を変革(倒幕ではない)させるために、藤田東湖の死を悔やむ水戸藩郷士西丸帯刀ら数人が破(井伊大老暗殺後の二の矢、三の矢を放つこと)を受け持ち、成(その後の処理)を長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らが受け持つという、役割分担の誓約だった。晋作も成破の盟締結の場に臨席した。(つづく)

高杉家家紋 武田菱
山口県下関市の東行庵(高杉晋作記念館)提供

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