作成日:2004/12/14


歴史 読み物 昔の牛久


高杉晋作と牛久宿(3)

牛久市文化財保護審議委員  栗 原 功(くりはら いさお)

水戸学と西郷隆盛、吉田松陰、高杉晋作

 徳川家康は尊王(天皇崇拝)精神が厚かった(家康の曾孫は女帝明正天皇)。その家康は、聖徳太子が17条憲法に用いた儒学(孔子の政治・道徳学)を大名および人民に学ぶよう奨励した。家康の孫の水戸藩第2代藩主徳川光圀は、大日本史に儒学の大義名分の見地から皇室崇拝を説いた。これを前期水戸学と言った。光圀はまた、ロシアの軍事脅威も唱えた。
 徳川第11代将軍家斉治政下の寛政10年(1798年)に巡見使団の一員として千島列島の択捉島に渡った水戸藩士木村謙次は「ウラジヴォストク(極東を征服せよ)」を国是とするロシアの領土標柱を引き倒し、「大日本恵登呂府」と書いた領土標柱を建ててきた。以後、幕府は各藩に命じて国後島、択捉島、得撫島や樺太南部(文化5年・1808年の公儀隠密間宮林蔵探査後)の警備に当たらせた。
 水戸藩第九代藩主徳川斉昭は、神道儒学一致の見地から尊王のための攘夷(外国人を討ち払う)を唱えた。これが後期水戸学といわれるもので、国体(万世一系の天皇)のもとに、徳川将軍家を柱にして水戸藩、薩摩藩、越前藩などの連合による統一国家を形成し、国防強化(ロシア、英、米の侵略対策)を図るという思想であった。その思想は斉昭側近の会沢正志斎が新論に、同藤田東湖が弘道館記述義に記し、大日本史などと藩校弘道館で藩士子弟らに鼓吹され、62の藩校の教科になり、吉田松陰らも愛読し、さらに公議政体論(坂本竜馬が船中八策の原案にした)や五箇条の御誓文の原案にもなった。斉昭はまた外国船の渡来に備えて、軍制を改革(寺社改革など)した上で、海防のための助川城を築き、陸上では実戦向けの大演習追鳥狩(多数の藩から視察に来た)を行った。
 嘉永6年(1853年)にペリーが来航して国防態勢強化など幕府の改革が急務となると、老中首座阿部正弘から、前水戸藩主斉昭が海防参与、藤田東湖が海岸防禦御用掛(防衛庁長官のような職)に任ぜられた。日本が植民地化される危機感を持った東湖は、米、ロシア(この年の8月に南樺太を占領)両国と戦う戦略も練り上げた。東湖の居宅、江戸・小石川の水戸藩邸内の官舎には横井小楠、佐久間象山、梅田雲浜、橋本左内、西郷隆盛らがたびたび訪れた。西郷は東湖に心酔し、「天下に真に畏るべきものは東湖あるのみ」と評した。2年後の安政2年(1855年)に江戸大地震で東湖が急死し、阿部老中も相次いで没すると、幕府は井伊大老の独断場(孝明天皇の勅許を得ないで米国と開国)になった。その井伊大老を幕府政治変革のため、東湖門下の水戸藩士が脱藩して暗殺した。また、東湖門下の斉藤佐次右衛門が脱藩して、政局千変万化の中で、親幕派から倒幕派に転じた西郷隆盛の依頼で、高杉晋作に薩長同盟締結を働きかけた(坂本竜馬は締結立会人)。
 これより先の嘉永4年(1851年)12月に長州の吉田松陰(23歳)は、盟友の肥後国の宮部鼎蔵と江戸から水戸道中を下り、筑波山の男体、女体両頂を極めて水戸城下に入った。水戸に1カ月あまり滞在した松陰は、毎日のように会沢正志斎の居宅を訪ね、「会沢先生は人中の虎だ」と評している。その会沢の下を久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤俊輔(博文)、中岡慎太郎、真木和泉らも訪れている。
 ところで、家康が奨励して後に国学に定められた儒学は、牛久藩校正心館をはじめ全国の藩校の教科になった。家康の孫の会津藩主保科正之は、儒学教育を柱にして藩校日新館を設立した。その日新館の童子訓に基づいて会津若松市では「青少年の心を育てる市民行動プラン『あいづっこ宣言』」を行い、人づくり教育を進めている。その教育方針は先般、NHK教育テレビで放映されるなど各方面で注目されているところだ。(つづく)

藤田東湖肖像(茨城県立歴史館所蔵)

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