トップページ → p1p2p3p4p5p6p7p8p9
p10p11p12p13p14・p15・p16p17


作成日:2007/01/31


歴史・読み物 昔の牛久

住井すゑとその文学の里(十二) 〜牛久沼のほとり〜

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

犬田卯・住井すゑの文学と天皇A

 大正11年(1922年)の7月、日本共産党が東京・渋谷で天皇制廃止、地主制度廃止、戦争反対と「革命」を目指して結成(日本共産党の八十年などより)された。天皇制の廃止は保安条例や大逆罪に触れる恐れがあったことから結成は秘密に行われた。初代委員長に選出された堺利彦はこれより15年余り前に幸徳秋水と平民社を創立して週間平民新聞の編集を担当していた。同新聞の編集メンバーの一人で挿絵担当の小川芋銭とも接触があった。
 3年後の大正14年に第一次加藤高明内閣によって、天皇制廃止、私有財産廃止(共有財産制への変革)、さらに市民革命を唱えて結社(政党)する者やその結社役員を取り締まる治安維持法が制定された。加藤首相は「憲政の常道・元老政治打破」を標榜して普通選挙法制定と抱き合わせて治安維持法を制定した。昭和3年(1928年)の6月に田中義一内閣は治安維持法に死刑を緊急勅令をもって付加した。田中内閣による治安維持法の強化改正は革命防止(国内の社会主義運動家がコミンテルン〈共産党の統一的な国際組織〉の支援を受けていた)のためだった。
 これより24年前の明治37年2月10日に日本は国家の浮沈を賭けてロシアに宣戦を布告した。宣戦布告は日本が提案した協商条約の締結をロシアが拒否したからだった。ロシア極東軍総司令官のクロパトキン大将は「300万人の常備軍で東京を占領してご覧に入れる」と豪語した。日本陸軍参謀本部次長児玉源太郎中将(のちに大将に進級し、満州軍総参謀長になる)は、ロシアへ宣戦布告後、ロシア国内のしかも首都ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)においての革命工作作戦を立て、その任務を部下の参謀本部付武官明石元二郎大佐に命じ、百万円の資金を渡した。国家予算が2億8千万円程度の時代の百万円だ。明石大佐はこの年5月(日本の海軍が旅順港閉鎖、陸軍は遼東半島制圧が間近だったころ)にスイスのジュネーブでレーニンと密会して、百万円に近い資金を渡した。結局これら明石大佐の諜報活動がロシアの敗戦へ、さらに大正6年(1917年)の革命へとつながったのだ。
 一方、治安維持法が強化改正された昭和3年にプロレタリア文学者たちが大同団結を図って統一組織「ナップ(全日本無産者芸術連盟)」を結成した。「社会主義思想に基づいて労働者・農民がその立場で思想や生活を描き、現実からの発展を目指す」のがプロレタリア文学だった。そのプロレタリア文学者の一人に小林多喜二がいた。小林は北海道・小樽の銀行員で労働運動の実践者でもあった。小林はナップ機関紙「戦旗」に、治安維持法を適用した当局の共産党関係者や労働、農民運動家など1道3府27県の1600人が一斉検挙され、拷問を加えられた事件を「1928年3月15日」という作品に書き上げて発表。翌年発表の「蟹工船」が評価を受け優れたプロレタリア作家として認められた。その後小林はナップの書記長を務め、日本共産党に入党して街頭で活動中の昭和7年に逮捕され、東京・築地警察署で拷問死した。
 ところが日本のプロレタリア文学者およびその一部の運動家たちは都市労働運動家を革命の前衛(闘争の先頭に立つ人々)に位置づけ、農民運動家を除外していた。そこで農民出の犬田卯は独自の文学の境地を切り開いた。犬田の文学は農民の生活を描く「農民文学」を確立して、農民の現実からの発展、延いては「革命(地主制度を廃止して大地主所有田畑を小作人へ引き渡す)」を目指すというものだった。
 一方の住井すゑは「住井すゑの世界」によると、反戦と6歳の時に思い決めた「人間以上の天皇=神と人間以下の部落と、こんな差別を許しておいてなるものか」を生涯信条としていた。
 ところで武者小路実篤が大正11年(1922年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を設置した。その武者小路は昭和14年(1939年)に「全世界の人間が天命を全うし、各個人の自我を完全に生長させ、相互の協力と調和に満ちた世界の建設を目指す共同体」を提唱して、埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に「東の新しき村」を設置した。

新しき村全景(昭和51年撮影)

武者小路実篤が開いた「新しき村全景(昭和51年撮影)」。
武者小路実篤と犬田卯は親交があった。-"新しき村美術館蔵毛呂山町歴史民俗資料館提供。


トップページ → p1p2p3p4p5p6p7p8p9p10p11p12p13p14・p15・p16p17

Copyright(c)2007,USHIKU CITY HALL. All rights reserved.