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作成日:2007/02/02


入選おめでとう

第26回全国中学生人権作文コンテスト茨城県大会

 次世代を担う中学生に豊かな人権意識を身につけてもらうことなどを目的として、平成18年度も法務省主催の全国中学生人権作文コンテストが行われました。牛久市が所属する竜ケ崎法務局管内からは881の応募があり、県大会の審査で5編が入選(優秀賞1、佳作4)しました。
 その中で、牛久市から佐久間玲奈さん(二中2年)、野口紗緒里さん(三中2年)、一石真輝さん(三中3年)(順不同)の3人の作品が佳作に入選していますので、ここで紹介させていただきます。おめでとうございます。

牛久市人権擁護委員(茂木)


人権問題のない明るい社会にするために

牛久第二中学校 2年 佐久間 玲奈

 人権って何だろう。「人権」という言葉を辞書で調べてみると、人間が生来持っている、自由、平等、生命などに関する権利とかいてあります。でも、今の日本は、昔と比べて、自由で平等になってきたと思います。昔は、女性の権力がなかったことを、社会の授業で学びました。しかも、他の国では、黒人だからといって、差別や、偏見があるそうです。だから、今の日本人は、幸せであり、この幸せを大切にしなければいけないと思います。私の知らないどこかでは、不幸なでき事や、人権問題がおこっているのです。
牛久第二中学校 2年 佐久間 玲奈
 私は、人権についていろいろ考えてみました。まず、平等についてです。私の考える平等は、男女が共に助け合い、男性だから、女性だからといった考えがないということです。学校の名簿は男女まぜて、名前の順に並んでいます。政治面では、昔なかった、女性の投票権利を持つことができるようになりました。仕事面では、看護婦という呼び名から、看護師になり、保健婦から保健師になりました。今あげた以外にも、平等が分かる事柄はあります。このような事から、今の日本は平等になってきたと思います。次に、自由についてです。私の考える自由は、国民全員が、自由で、笑って生活できることです。戦争の時代は、小さな子どもたちや、学生が、学童疎開などで、働かなくてはいけませんでした。子どもたちは、勉強したくてもできない、友達と遊びたいのに遊べない、食べ物を食べたいのに食べられない、そんな貧しい生活をしていました。今の日本からは、想像もできません。それに、男の人たちは、大切な家族と別れ、兵隊として国のために戦っていました。それに比べて、今は、兵役の義務もないし、働くのも自由、義務教育をすぎれば、就職したり、高校に進学するのも全て、自由になります。それに、食べ物だってあるし、好きな洋服を着たり、家族とむりやりはなされることもありません。だから、今の幸せすぎる環境を、大切にしなければいけないと思います。幸せすぎるから、命の大切さや、後先を考えられない人がでてくるのだと思います。そんな人が、いじめや差別をしてしまうのでしょうか。あまり人と話さない人や、障害をもっている人が、いじめの標的になってしまうのです。私は、弱い者をいじめるのは、おかしいと思います。人がみんな同じ顔をしていて、同じ性格だったら、変だし、いろいろな考えをもっている人間がいていいと思います。
 私の知り合いに、自閉症という障害をもっている子がいます。障害をもっているけれど、自分の考えや、意見はちゃんともっています。字を書くこともできるし、話すこともできます。でも、うまく自分の気持ちを伝えることができません。私と会うのを楽しみにしていて、時々私の家に遊びに来ます。言葉が聞き取りづらく、何をしたいのか分からないことがあります。しかし、親は、何を言っているのか分かり、やさしく接しています。その子は、普通の学校に行って部活をしているそうですが、いじめられずに、毎日楽しく生活しています。それは、きっと友達との絆、家族との絆、先生との絆が強いからだと思います。
 夏休み中のTVでも障害のある子が、ひとつの事を懸命に頑張っている姿を見ました。それも、支えている人がいるからだと思います。親も、子も、生き生きしていて、見ていて、あたたかい気持ちになりました。私は、あらためて、家族や友達の支えが大切だと思いました。自分が、誰かに支えられていることを知れたら、相手の気持ちを思いやることができるので、相手を傷付けずにすみます。いじめは、人の心を傷付け、ボロボロにし、自分も傷付いてしまいます。傷付ける前に、命の重みを考えて、悪い事をする人がいなくなることを願っています。
 国民全員が幸せになるためには、人を思いやる心、自分の立場を考え、後先を考えて行動することが大切だと思います。一人一人の気持ち次第で、いじめや差別のない、明るい社会になるのではないでしょうか。幸せな日本に見え、人権問題も、改善してきたように見えますが、実際には凶悪犯罪など毎日のようにいろいろな問題がおこっています。人と人が、かかわりあわなくては生きていけない社会だから、人権について考え、人を尊重する心を忘れないようにしたいと思います。一人一人が、人権問題を考えれば、今起こっている、いじめや、差別を減らすことができるのではないでしょうか。私は、国民全員が、人権問題について考え、幸せに暮らせる未来が来ることを願っています。

「ありがとう」は心の絆

牛久第三中学校 2年 野口 紗緒里

 「ありがとう」とは、感謝の気持ちを相手に対して伝える言葉だが、あなたは、「ありがとう」という言葉の意味を深く考えたことがあるだろうか。
 四年前、当時小学生だった私は、慌てふためく母の姿に驚いた。脳梗塞で介護を受けていた祖母が、二度目の発作を起こし倒れたのだ。まもなく救急車が来て、祖母は、病院へと運ばれて行った。
牛久第三中学校 2年 野口 紗緒里
 病室に入った私は、祖母の姿を見て愕然とした。体中チューブにつながれた姿が、まるでロボットの様に見えたからだ。私は、何度も話しかけてみたが、意識がはっきりしない祖母は、何も答えてはくれなかった。
 元気だった頃の祖母は、とてもやさしい人で、いつも私を可愛がってくれた。そんな祖母が、私は大好きだった。
 だが、脳梗塞という病に侵され、自分自身のことすら満足にできなくなった時、私達の生活も一八○度変わっていった。今まで、甘えていた私が、祖母の身の周りの世話を手伝うことになったのだ。
 私は、祖母のために、食事を運んだり、食べさせてあげたり、車イスで散歩に連れて行ったりした。その度に、優しかった祖母は、うれしそうに、「ありがとう」と言ってくれた。
 だが、その時の私は、その言葉を素直に受け止めることができなかった。
 なぜなら、毎日祖母の面倒をみる手伝いが、私にとってとても負担に感じていたし、「なぜ、私だけ。」という気持ちが強かったからだ。毎日がとてもつらく、祖母の感謝の気持ちなど何も考えずに、当たり前の様に聞き流していた。
 入院してから、私は、毎日祖母に会いに病院へ行った。祖母の声が聞きたくて、体をさすりながら、何度も呼びかけてみたが、祖母の口から二度と「ありがとう」という言葉を聞くことはできなかった。
 もう一度祖母に、「ありがとう」と言ってもらいたかった。いや、本当は、私から祖母に「ありがとう」と言いたかったのかも知れない。
 「あの時、祖母の感謝の気持ちを素直に受け止めることができたら良かったのに。」と、とても後悔した。そして、言葉が伝わらないさびしさを痛烈に感じた。私が、「ありがとう」と言えないまま、祖母は、八ヶ月後に静かに息をひきとった。
 現代の私達は、「ありがとう」というたった五文字の言葉さえ、上手に伝えることができない。そして、その言葉を素直に受け止めることも難しいのだ。
 「ありがとう」の言葉が、人を救い、また「ありがとう」の言葉に人は救われる。
 「ありがとう」は、人と人とのつながりにおいてとても重要な言葉なのではないだろうか。そして、「ありがとう」という言葉が、世界中の人々につながった時、本当の絆が生まれるのだ。
 私は、これからも、感謝の気持ちを素直に表して「ありがとう」を言いたいと思う。たとえ、その時相手が気付いてくれなくても、後で必ず気付いてくれると信じているから。
 天国の祖母も、きっと喜んでくれているだろう。

「みー」あんちゃん

牛久第三中学校 3年 一石 真輝

 小さい頃からそばにいたから分からなかったのかもしれない。それが私にとっての「普通」だったんだと思う。
 私の母親の母親、つまり祖母の弟がそうだった。世間で言う「障害者」だった。私は小さい頃から千葉の祖父母の家に夏休みなどの長期の休みになると遊びに行っていた。そこで出会ったのが「みー」あんちゃんだった。祖母の家は一応道路に面しているが、道路から敷地に入り、階段を上がってすぐ玄かんがある。
牛久第三中学校 3年 一石 真輝
文章で説明するのが少し難しいけど、またその横に階段があり、階段を少し上がると空き地があり、その空き地に寄らずまっすぐ行くと家があり、その家が祖母の実家で、みーあんちゃんの家。みーあんちゃんは、その家の窓からいつも顔を出して、下にある空き地を見たり遠くを見たりしている。面白くもないのに何かを指さして笑っている。私が初めてみーあんちゃんを見たのもそんな場面だったと思う。 
 みーあんちゃんは、三歳くらいのころに急に熱が出て、病院に行ったんだけど、もう手おくれだったらしい。だから、姿は大人でも頭の中はまだ三歳のままなんだよ、と母やおじ、祖母に聞いたことがある。小さかったから、多分意味も分からなかったはずなのに、印象的だったのか、ずっと覚えていて、やっと最近になってその意味が分かってきた。脳に障害がある障害者なんだと。
 今まであんちゃんの身のまわりの世話はひいおばあちゃんがやっていたが、ひいおばあちゃんが亡くなり、世話は祖父母がしていた。そんなとき、何を思ったのか私と弟は唯一の遊び場である空き地で遊ぶあんちゃんを敷地の外に連れ出そうとし、そこを祖母にみつかってしまい、とても怒られた。それ以来、あんちゃんと距離を置くことにしていた。そして、今問題になっている、してはいけないことをしていた。「差別」をしていた。この夏休みまでずっと。最初は言葉じたい知らなかったけど、今思えば何がしたかったんだろう。変なあだ名で呼んだり、さわられたらぬぐう。物がさわられたら、「さわんないで」むこうが言葉が分からないのをいいことに。しかもむしろそれを楽しんでやっていた。障害のある人に対してのいじめのようだった。この前祖母の家に行った時も同じことをしていた。
 だけど、茨城に帰る当日、小さなハトコたちと遊んでいるときだった。その日は上の家でかくれんぼをしていて、早くみつかってしまい、ヒマだったので家の中を歩きまわっていたら、あんちゃんをみつけた。祖父母は交代で世話をしていて、お昼すぎは祖父が世話をしていた。その祖父は外で手を洗っていていなかった。あんちゃんをからかってやろうと思ったが、すぐにその気持ちは消えていた。いつも外を見ているスペースにはお下がりのおもちゃが置いてあり、そのおもちゃの車を動かして寂しそうに遊んでいたから。本人は寂しくないかもしれないけど、私はそう見えた。急に今までのことが申し訳なく思えてきた。しちゃいけないことだから、当たり前のことかもしれないけど。祖母が私たち兄弟があんちゃんのことを言うたびに少し悲しそうだったのを思い出した。自分の身内のことを悪く言われたら誰だって悲しいに決まってる。なんでもっと早く気付かなかったんだろうと後悔した。そしてやっぱり悲しくなった。
 夏休みの後半、私のまちがいを気付かせてくれたみーあんちゃん。出会ってなかったら、これと同じことを他の誰かにしていたかもしれない。みーあんちゃんがもし、言葉を話せたら、私が話し相手になって、いろんな話をしようと思った。仲良くなれたらいい。あえて障害者という言葉は今は使わない。皆同じ人間だから。この夏、みーあんちゃんを通してたくさんのことを考えた。

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