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作成日:2007/02/05


幻の芋銭屏風、牛久に帰る

小川芋銭作「老楊と荒村」
小川芋銭作「老楊と荒村」 紙本・淡彩・屏風(6曲1隻) 大正2年ごろ 133.5×362.0cm
 牛久市では、このたび小川芋銭の名作「老楊と荒村」を購入しました。この作品は、屏風という大作にもかかわらず、芋銭研究家の間ですら、今まで全くその存在が知られていませんでした。芋銭は、目本画家として、日本美術史上に不動の名をとどめていますが、始めから日本画を描いたのではなく、画家としての基礎を洋画に学びました。
 明治から大正に変わるころ(芋銭45歳ごろ)、芋銭は本格的な日本画家を目指して、活動を開始します。「老楊と荒村」は、そのような芋銭芸術の一大転換期を象徴する作品です。洋画風の技法で描かれ、しかも、これほど充実した作品は、いまだ確認されていないので、芋銭芸術におけるその重要性は、異論を挟む余地がありません。
 次に、絵の成り立ちを追ってみます。小川家には、芋銭のスケッチ帖がたくさん遺されています。その一冊中に、「会津喜多方柳の下」とメモのあるスケッチ(下図)がありました。「老楊と荒村」は、これによって、福島県喜多方にある風景を題材とした作品であることが分かりました。なお、同スケッチ帖には、この作品の素材となったスケッチが、ほかにもいくつか収められています。
 芋銭は、「老楊と荒村」を制作するにあたり、単に実景を写したのではありません。屏風という横長の大画面を構成するため、いくつものスケッチを参照し、入念に一つの芸術作品を創り上げました。題名の「老楊」とは、「古い楊の木」という意味です。画面中央に大木が見えますが、これが「老楊」です。スケッチの大木とは異なり、何か得体の知れない、木に宿る妖気のようなものが込められているように感じられます。題名には、続いて「荒村」とあります。この言葉からは、寒々とした印象を受けますが、家々にほどこされた色彩は、どこか暖かみがあります。そこからは、芋銭の優しさが、しみじみと伝わってきます。
 この作品は、屏風に描かれています。屏風は、風よけや間仕切り、装飾などに用いられてきました。芋銭は、特に装飾的な面を考慮し、空が描かれているところに、金箔を細かくしたもの(砂子)をまき散らすなどして、華やかさを添えています。
 芋銭は、明治の末から大正初めにかけて、数度、会津方面を旅行しました。芋銭芸術を代表する作品の一つ「老楊と荒村」は、この旅から生まれました。
「老楊と荒村」に押された芋銭の印

「老楊と荒村」に押された芋銭の印。芋銭自身が里芋の葉と芋、それに銭とをデザイン化

会津喜多方柳の下

参考
小川芋銭スケッチ帖より「会津喜多方柳の下」小川家蔵

「老楊」を題材とした作品

参考
同じ「老楊」を題材とした作品
 (雑誌「俳鏡」より)


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