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作成日:2006/10/31


歴史・読み物 昔の牛久

住井すゑとその文学の里(九) 〜牛久沼のほとり〜

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

農民文学による革命運動の先駆者 犬田卯と小川芋銭

 住井すゑの夫犬田卯は、明治24年(1891年)に旧稲敷郡牛久村大字城中小字南原の犬田家長男として生まれた。犬田家は、自作と小作が半々の農家だった。卯は牛久村立尋常小学校で学び、北相馬郡相馬町(旧藤代町、現取手市)立尋常小学校高等科に進む。龍ケ崎中学校(土浦中学校の分校として創立。現竜ケ崎第一高等学校)への進学を希望していたが、父藤吉の「百姓に学問はいらねえ」の一言で、これを断念して農業に従事した。向学心に燃える卯は悶々と日を送っていた。卯18歳、明治42年(1909年)春、近所に住む小川芋銭を訪ねた。芋銭は親子の年の差のある卯を温かく迎え入れてくれた。芋銭は人生観を語り、帰りには蔵書の中から「麺麭の略取(翻訳は幸徳秋水)」や「即興詩人(森鷗外訳)」を貸してくれた。
 小川芋銭はそのころ日刊平民新聞に「予は如何にして社会主義者となりしか」と題する文章を発表していた幸徳秋水と交流があった。幸徳は、非戦論者で、貴賤貧富の差をなくすという考えを持ち、老子の思想に深く傾倒するなど、芋銭とは共通する点が少なくなかった。芋銭は、幸徳らが発行する日刊平民新聞 (芋銭もメンバーの一人)に挿絵を送っていた。明治43年(1910年)6月1日、幸徳秋水は伊豆湯河原の旅館で「大逆事件(明治天皇暗殺を企てたとされた)」の首謀者とみなされて検挙された。「橋のない川住井すゑの生涯」などによれば、その
翌日の早朝、芋銭宅は制服に身を固め腰にサーベルを下げた警察官数名に取り囲まれたが、芋銭は少しも動じることなく絵を描いていたという。芋銭の孫耒太郎氏によれば、後日芋銭が、牛久沼に自生する蓴菜の食用の芽を詰めた一升瓶をふろしきで包み、右の肩から斜めにかけて胸元で結び、家を出て牛久駅へ向かうと、警察官にその包みが爆裂弾ではないかととがめられたという話が小川家に伝わっているという。
 卯は翌明治44年に水戸工兵隊第14連隊へ入隊して兵役についた。3年後に除隊してからは農業の傍ら、時々、横瀬夜雨(下妻市出身)が主宰する水戸市のいはらき新聞紙上の木星歌欄に詩を投稿した。夜雨は筑波嶺詩人と称され、それまでの活動の場、中央詩壇を離れ、郷土の後進の指導にあたっていた。夜雨は「女男居てさへ 筑波の山に霧がかかれば 寂しいもの(筑波山女体峰の詩碑に刻まれている。この碑文は芋銭が書いた)」など数々の民謡風叙情詩を明治の詩史に残した。当時水戸市には農民文学者長塚節(旧石下町、現常総市出身)の影響を受けた文学青年たちもいた。卯の農民文学による革命運動(小作人への農地解放など)は、小川芋銭、幸徳秋水らによって方向づけされ、横瀬夜雨や長塚節、さらにプロレタリア文学(これとは異なる)などの影響を受けて確立するのだ。卯は、農業にさっぱり身が入らなくなった。卯は芋銭と相談の上で上京して文学で身を立てる決意を固めた。そして芋銭に博文館の編集部に世話をしてもらった。卯24歳、大正4年(1915年)のことだった。

麺麭の略取

麺麭の略取(小川家所蔵)

 卯が芋銭に借りた本。この本はロシアのクロポトキンが1892年(明治25年)に著した。クロポトキンは、ロシア皇帝アレクサンドル2世(革命的秘密結社による世界史上初の爆弾テロで暗殺された)・3世在位中、爵位や財産のすべてを放棄して、1870年(明治3年)代から「無政府主
義的共産主義」を唱え、その革命運動の途に入り、投獄、逃走、亡命の生涯を送った。麺麭の略取は幸徳秋水が日本語に翻訳した。明治42年(1909年)1月に発刊して届け出たが即日発禁になった。極秘裏に秋水から芋銭に贈られたようだ。


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