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作成日:2006/08/31


住井すゑとその文学の里(7)   ー 牛久沼のほとり ー 

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

住井が書いた広告が講談社社内懸賞に入賞

 講談社は野間清治が明治43年(1910年)2月に雑誌「雄弁」を創刊して、創業の第一歩を踏み出した。翌44年11月には講談、落語、浪花節を活字にした「講談倶楽部」を創刊。さらに事業欲旺盛な野間社長は大正3年(1914年)11月に「少年倶楽部」、同5年9月に「面白倶楽部」を刊行した。
 住井が入社した大正8年当時の講談社は、第一次世界大戦後の好景気を反映して、講談倶楽部が10万部近い売れ行きを示し、第一期黄金時代を迎えていた。
 編集部員といっても不慣れな住井には簡単な仕事しか割り当てられなかった。が、住井は広告作成で異才を発揮した。住井が作成した講談倶楽部の広告が社内懸賞の一席に入賞して、12月7日の朝日新聞に「講談倶楽部、大正9年新年号」として掲載され、人々の目を引きつけて好評だったのだ。「講談落語雑誌界の本家本元 大評判 注文殺到早く御覧!」というキャッチフレーズはもとより、広告文すべてを彼女が考えた。また住井の広告作成は、一度使った原版のうちから使用が可能な部分を切り取って再利用するので、経費削減になり経営者にも好評であった。この広告が「昔、18歳でこの1ページ広告をつくった人があるんだ、君たちもしっかりしろ」と講談社の新人社員に見せる資料になっていた、と住井は自慢していたという。

講談社が労働条件改善に応じない

 日本の軍事冒険小説の元祖といわれる押川春浪は、明治33年(1900年)に「海底軍艦」を著した。これは後に建造される潜水艦を題材にした痛快冒険小説であった。アメリカが潜水艦を建造する5年前の作品であった。押川はその後博文館に迎えられて雑誌「冒険小説」の主筆になっている。
 一方、講談社の「少年倶楽部」は押川春浪が巻き起こした軍事冒険小説ブームに乗った作品を掲載していた。昭和に入っても少年倶楽部は、佐藤紅緑の「あゝ玉杯に花うけて」、陸軍大学中退後に中国に渡り、孫文の革命軍に参加して帰国した山中峯太郎の「亜細亜の曙」や「敵中横断三百里(日露戦争で建川陸軍中尉が率いる騎兵斥候挺身隊をモデルにした)」、平田晋作の日米大決戦を想定した「昭和遊撃隊」などを掲載。これらの小説が昭和初期の少年たちの「血を湧かせ肉を躍らせた(読者の記録より)」のだった。
 講談社野間社長のさらなる事業欲は、出版業界の制覇であった。その戦略は、女性社員を採用して他社に先駆け、婦人雑誌部門を設けるというものだった。住井の場合は、若いから数年後に戦力になればよいと思って採用した。しかし、住井は学力が高く、機転が利き、新たに刊行する「婦人倶楽部」編集の有力な戦力になりそうだった。
 当時、講談社の給料は、女性の場合、日給月給制で、日給が85銭、休みは月2日と決められていた。男性は月給制で、月給手取りの男女差は3円ほどであった。
 住井は入社早々、社をあげた新聞一頁広告競作で第一席を取り、年末も30日まで働いた。それでも待遇は少しも改善されない。彼女の給料の手取りは20円(そのころのタイピストの最低賃金が月給50円)を切っていた。どういうわけで男が月給、女が日給なのか。しかも女性の日給が一律に85銭と決められているのか。住井は野間社長に待遇改善を訴え出た。「女は毎月、休日以外に必ず休むから月給にできないのだ。休むから安くてもいいんだ」と野間社長は住井の訴えを聞くことはなかった。

(写真)住井が社内懸賞一席に入賞した広告

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