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作成日:2006/08/01


住井すゑとその文学の里(6)   ー 牛久沼のほとり ー 

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

親にそむきさすらふ子にも親なれば健かにあれとのたまひしかな

−住井が上京の際、詠んだ歌−
 住井は奈良市内で犬田卯に会った。住井は犬田に別れ際「東京で一緒に文学をやりましょう」と言われた。それ以来、住井の胸の中には「田舎娘の自分でも上京して文学をやれるのではないか」、という途方もない夢が広がり出すとともに、犬田の人を優しく包み込む笑顔が心から離れなくなった。住井は犬田に手紙をせっせと書いて送った。
 そのころ住井家では薬の販売を始めていた。昔、吉野山の山中の金峯山寺は修験道(仏教の一派)の聖地であった。そこの修行者たちは秘薬を用いていた。秘薬は後年商品化され、大和の置薬と称され有名になった。住井家出入りのその置薬屋の売人が、住井に、東京の定宿にしている本郷(文京区東部)二葉館前の動坂下の講談社で、婦人記者を募集していることを、そっと教えてくれた。「東京へ行こう」、住井は迷うことなく、応募の手続きをとった。ところが「女のくせに東京へ行き、職業婦人になることはなにごとか」、と家中の大反対にあう
。特に父親と長兄は頑固一徹、母親は「どうせ、いつかは、この娘は出て行く」と、内心思っていたようで、父親をとりなそうともせず、すったもんだの末、「勘当」された。時に住井すゑ17歳、大正8年(1919年)春のことであった。
 奈良の田舎の小娘が、頼りにしていたのは一度しか会ったことのない犬田卯だけだった。住井は家から勘当され、講談社の入社試験に落 ちても帰るところがないので、そのまま東京にいる覚悟と準備をして上京した。「親にそむきさすらふ子にも親なれば健かにあれとのたまひしかな(大正8年4月刊の文章世界掲載)」は住井が上京のときに詠んだ歌だ。

犬田卯

若き日の犬田卯

 

講談社に採用される

 住井は講談社採用試験のための用意をしてきた。が、面接だけで採用が決まった。野間社長は、住井の師範学校を出ないで訓導(教員)検
定に合格した才気と、一人田舎から上京して講談社に就職しようとする勇気とを総合的に判断して、この女性は使えると見て採用したようだ。

犬田卯の部屋で小川芋銭の書「抱樸舎」に出会う

 住井は講談社に通うようになっても本郷動坂の旅館、双葉館に泊まっていた。入社してひと月が過ぎた休日に、前触れもなく犬田卯が訪ねてきた。犬田は小石川区小日向(文京区西部)の浄土宗安養山還国寺に間借りをしていた。犬田の部屋の壁に掲げられている扁額の枠の中には「抱樸舎」という三文字が認められてあった。これは小川芋銭が書いたものだ。芋銭は2年前(大正6年)、横山大観に画壇の最高峰である日本美術院の同人に推薦されていた。その年芋銭は、犬田の部屋に、東京帝国大学医学部の入沢内科に通院するため、一週間ほど逗留した。抱樸舎という揮毫は芋銭が宿泊のお礼の気持ちを込めて書いて犬田に贈ったものだった。抱樸舎とは、老子(中国古代の学者)第十九章に由来する。「人間は素朴で私心を薄くし、私欲を慎むべきである」という意味。後年住井は、老子の思想に傾倒して、晩年に牛久沼のほとりの屋敷内に開いた学習塾に「抱樸舎」と命名した。

抱樸舎

小川芋銭の書「抱樸舎」

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