作成日:2005/03/31


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あんパン考案者木村安兵衛(3)  そのあんパンを明治天皇に献上 

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

米蔵番の雇人からパン屋に転じた安兵衛         

 日本に最初にパン(同時にカステラ、たばこ、鉄砲など)を伝えたのは、天文12年(1543年)の夏に大隅国の種子島最南端の門倉岬(現在の鹿児島県熊毛郡南種子町)に漂着したポルトガル人の船員だった。その6年後に薩摩国(現鹿児島県)に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルは、本国スペイン国王に「日本で良質のパンが作られている」と手紙に書いて送った。この年、織田信長15歳、豊臣秀吉は12歳、徳川家康は7歳であった。
 時は移って安政5年(1858年)、幕府の井伊大老が米の主導で、蘭、露、英、仏と修好通商条約を締結して開国。この五カ国に横浜、長崎、函館、新潟、神戸の港における自由貿易の許可を与えた。以後、各港の外国人居留地には西洋の機械、衣類、酒類、食品や料理などが持ち込まれ、貿易商社や銀行も進出してきた。長崎で生まれた上野彦馬は四年後の文久2年(1862年)、外国人居留地でオランダ人から写真機を購入して、日本で最初の写真館を開いた。高杉晋作や坂本竜馬の写真はここで撮影されたものだ。文明の開化は幕末に始まっていたのだ。
 慶応3年(1867年)の10月に徳川第15代将軍慶喜が政権を返上して、12月に明治天皇が政権を握り、総裁(総理大臣にあたる)に有栖川宮熾仁親王が任命された。同4年の7月には江戸が東京に改められ、9月には明治に改元された。この年の6月に東京・京橋の風月堂が、黒胡麻入りパンの製造・販売を始めた。同店の乾パンとビスケットは、持ち運びが軽便で保存が効くので戊辰戦争(1月の鳥羽・伏見の戦いから翌年5月の函館五稜郭開城で終了)の政府軍主力、薩摩兵が携行食に用いた。この年には下総佐倉藩(千葉県佐倉市)の側用人西村芳郁の三男勝三(30歳)が刀を捨てて、横浜で鉄砲商を開いた(明治になると鉄砲御用達になった)。
 明治2年(1869年)6月、太政官(政府)が徳川家と全藩主に、版(土地)籍(人民)奉還を命じた。それによって189万2,449人の武士が失職(失禄)した。
 世の中が大きく変わったのだ。安兵衛は横浜の居留地の外国人にパン製法を学び、この年、芝日蔭町(現新橋駅付近)に文英堂という看板を出して小さなパン屋を始めた。が、同年暮れの大火で店と工場は灰燼に帰してしまった。翌年、安兵衛は銀座通り沿いの尾張町新地に屋号新たに木村屋というパン屋を開いた。当時、皇城(後の皇居)護衛および儀仗を任務とする近衛兵の兵営が、内堀竹橋門付近に設けられていた。近衛兵は薩摩、長州、土佐の藩兵で編成されていた。そこの薩摩藩兵用に風月堂が黒胡麻パンを納めていた。木村屋もそこに少量のパンを納めることができた。

あんパンの考案に成功した安兵衛

 尾張町新地の店と工場も明治5年(1872年)2月の兵部省庁舎(和田倉門内の旧会津藩邸)から出た大火により延焼してしまった。東京府知事由利公正は、翌6年の暮れまでに、京橋〜新橋間の銀座通りを八間から十五間に広げ、車道歩道を区別し、歩道に桜の木を植えて、東西両側に不燃の赤煉瓦二階建て洋館店舗街を完成させた。安兵衛は東側(関東大震災後は真向かいの秋葉人力車製造所跡に移る)の12.5坪の店舗を890円の高価で払い下げを受け、そこでパン屋を再開した。
安兵衛と二男英三郎、三男儀四郎は「パンをどんなふうに作り変えたら日本人に食べてもらえるのか…」日夜考えた。安兵衛親子は饅頭に着目した。饅頭は南北朝時代の暦応年間(1338〜41年)に中国から帰化した林浄因が大和国(現奈良県)で作ったのが最初だ。饅頭の製法は小麦粉と甘酒か、ふくらし粉などで練った生地であんを包んで蒸した。安兵衛親子はあんを酒麹を混ぜた生地でくるんで焼いてみた。先覚者が必ず通る関門、試行錯誤を重ね、日本酒の香りのする柔らかな菓子パン「あんパン」が出来上がった。明治6年(1873年)のことであった。
 (写真)木村屋の「あんパン」(木村屋総本店提供)
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