作成日:2004/11/29


歴史 読み物 昔の牛久


高杉晋作と牛久宿(2)

牛久市文化財保護審議委員   栗 原 功(くりはら いさお)

水戸道中の成井、田宮、中根に一里塚が築かれた
成井・中根一里塚は、市史跡文化財

 大和朝廷は全国を統一(西暦360年前後)すると、都と諸国の連絡道路を建設した。この道路を鎌倉に幕府を開いた源頼朝が整備したので鎌倉街道などと呼ばれた。鎌倉街道は、鎌倉において一朝事あるとき、諸国の武士が馬蹄を轟かせ、いち早く駆け付ける道路だった。幅員は一間(約1.82メートル)ないし二間だった。そのため至る所で軍馬の渋滞が生じたので、往路と復路が設けられた。牛久宿を通っていた鎌倉街道は往路であった。往路は陸奥国を発ち、水戸、土浦、牛久、浅草を経て鎌倉に達していた。
 豊臣秀吉の政権の下で鎌倉街道は、水戸城主になり、徳川、上杉、前田、毛利、島津と共に「六大将」と評された佐竹義宣にちなんで佐竹街道と呼ばれた。
 慶長9年(1604年)、徳川家康は代官頭大久保長安に佐竹街道の拡幅および改修工事を命じた。その工事にあたって家康は長安に、江戸・日本橋を起点にして、水戸道中の両側に一里(約3.92キロメートル)ごとに土を盛り上げて塚を設けるよう命じた。一里塚は旅人が里程(距離)を測る目印とするものだったが、駕籠賃や駄賃(運賃)の料金算定の基準にもなった。一里塚は、織田信長が天正10年(1582年)に36町を一里とする制を定めて塚を築いたのが最初で、この政策を豊臣秀吉が継承した。牛久市域の成井一里塚は、江戸・日本橋から第14番目、田宮は第15番目、中根は第16番目だ。成井と中根の一里塚は市史跡文化財に指定されているが、田宮一里塚は跡形もない。

(写真) 江戸・日本橋から数えて16番目の中根一里塚

水戸徳川家の専用旅館だった牛久宿本陣

 水戸と紀伊と尾張の徳川家を御三家と言った。将軍家に世継ぎ(後継者)がない場合は紀伊、尾張両家から選び出した。水戸家からは世継ぎは出せなかった。水戸家で生まれた慶喜は、一橋家(徳川一族で将軍を出せる御三卿の一つ)に養子に入って第十五代将軍になった。水戸家の場合は、藩主が定府(江戸在住)して、世継ぎ選定や老中選任など将軍の政務を補佐する役目を帯びていた。そのため天下の副将軍(実際にはない役職名)と称された。
 また、水戸家では参勤交代を免除されていたが、歴代の藩主は賜暇(休暇)を得て、ときどき国許水戸へ下ったことがあった。その際、牛久宿に設けられた本陣佐野家を休泊に利用したことがあった。水戸道中に水戸徳川家専用の旅館本陣は牛久宿のほか、小金、取手、藤代、府中(現石岡市)にも設けられていた。(つづく)

(図)江戸時代の牛久宿(1855年ごろの様子)牛久町史 史料編(2)より

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