作成日:2004/11/11


歴史 読み物 昔の牛久


このコーナーでは、牛久にまつわる歴史を紹介します。
今回から6回(予定)にわたり、栗原功氏が執筆する「高杉晋作と牛久宿」を連載します。

高杉晋作と牛久宿(1)

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

水戸道中(街道)と水戸徳川家

 慶長5年(1600年)に、関ヶ原において、東軍の総帥徳川家康は、石田三成が率いる西軍を破り、同8年に伏見城(京都)中で第107代後陽成天皇より征夷大将軍(幕府首長)に任命された。
 家康は幕府の本拠を江戸に置き、その江戸と要衝の地を連絡する施設、五街道(※1)の整備を急いだ。家康は五街道以外に、江戸より水戸城下に至る水戸道中の整備も命じた。水戸城の城主には11男の頼房を充て、陸奥仙台城内に秘かに千畳敷の大広間「帝座の間」を造って、天下制覇の夢を描く伊達政宗の押さえとした。家康は頼房に徳川姓を名乗らせ、葵の分家紋を用いさせた。水戸黄門こと第2代水戸藩主光圀は、頼房の三男である。
 ところで、水戸道中の起点は江戸日本橋だが、厳密には千住宿までが日光道中で、千住宿でその日光道中と分かれ、そこから新宿(東京都葛飾区)までの間が水戸佐倉道だ。新宿からが公儀(幕府)での呼称水戸道中で、松戸、小金、我孫子、取手、藤代、若柴、牛久、荒川沖、中村、土浦、中貫、稲吉、府中、竹原、片倉、小幡、長岡の宿を通って、水戸城下に達した。松戸宿に入る手前、江戸川渡船場の手前には、金町松戸関所が設けられていて、そこでは役人たちが「入鉄砲に出女」(※2)などに目を光らせていた。往時は水戸道中を水戸街道とも言ったようだが、これは俗称だった。明治5年(1872年)4月の太政官(※3)布告により、水戸道中とその以北岩城相馬街道の区間が陸前浜街道(千住〜岩沼間)に改称され、さらに大正9年(1920年)に国道6号に改称された。(つづく)

栗原 功

昭和50年から牛久市(町)文化財保護審議委員。ひたち野西在住。59歳。

【語句説明】

(※1) 五街道…江戸日本橋を起点とした5つの街道。東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道を指す。
(※2) 入鉄砲に出女…江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を関所で特に厳重に改めたこと。武器の流入と江戸に置かせた諸大名の家族婦女の脱出を防ぐため行った。
(※3) 太政官…明治元年に設置された最高官庁。今日の内閣に当たる。

徳川家の葵の紋。左が本家紋(徳川将軍家用)で、右が分家紋(水戸徳川家用)。分家紋の方が、3枚の葵の葉の間のすき間が広く空いている。

>1 >2 >3 >4 >5 >6 >7 >8 >9 >10 >11 >12