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作成日:2005/12/27


南北朝・室町・安土桃山前期の牛久領主岡見(尾上)家の興亡(3)

尾上(岡見)家創建の東林寺

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

創建者尾上(岡見)治胤

女化原狐伝説に登場する栗林義長の位牌がまつられている

 曹洞宗福寿山東林寺は新地町地内の寺院だ。東林寺は室町時代中期(嘉吉3年・1443年)に牛久城主の尾上(岡見家と同族)治胤が、舌状台地の一画に、大雄山最乗寺(現神奈川県南足柄市)より、天助高順和尚を迎えて開山した。ここには後に尾上(岡見)家によって東林寺城(新地城)が築かれた。
 東林寺開山24年後の応仁元年(1467年)に京都を中心舞台として戦われた大乱が起こった。「応仁の乱」と言われるこの戦いは全国に波及して、戦国の世になった。
 戦国乱世の嵐は、常陸国は言うまでもなく、牛久の地にも及んだ。岡見(尾上)家の宗家は足高城(現伊奈町)におかれていた。その尾上(岡見)家危急存亡の秋を、権謀術数をめぐらして切り抜けた家老に栗林義長という人物がいた。義長は「女化原(元は高見ヶ原といわれた)狐伝説」にも登場する。東林寺には義長の位牌がまつられている。
 岡見(尾上)家は隆盛期に十カ城(いずれも掻上城)余り持っていた。が、戦国の末期には牛久城一城だけになった。その牛久城が天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって接収され、城主尾上(岡見)治広が浪々の身になると、東林寺の法灯も消えた。
 豊臣秀吉政権下で牛久城主には由良国繁が任ぜられた。国繁は国替えに際し、上野国(現群馬県)より、菩提寺の金竜寺を東林寺境内の一隅に移した。が、その金竜寺も寛文6年(1666年)に若柴(龍ケ崎市)に移された。(写真) 東林寺本堂

東林寺中興開山は、牛久藩第5代藩主山口弘長

 慶長6年(1601年)に表高一万石余の牛久藩の初代藩主に譜代の山口重政が任ぜられた。が、重政は同18年(1613年)に改易(領地没収)された。嫡子重信と大久保忠隣(小田原主で秀忠付老中)の養女との婚姻が幕府の許可を得なかったという廉であった。重政重信親子は元和元年(1615年)の大阪夏の陣に出陣し、井伊直孝隊に属して戦い、重信が大阪方の武将木村重成(小川芋銭の先祖)と槍を合わせて重信は討死した。これらの功により、重政は寛永6年(1629年)に牛久藩主に復職し、政務所の陣屋(現かっぱの碑付近)を築いた。
 一方、東林寺の本堂や庫裏は朽ち果て、境内は草薮になっていた。その東林寺を寛保元年(1741年)に牛久藩第5代藩主山口弘長が、鷲仏経峯(大和尚禅師)を迎えて、中興開山した。東林寺の墓地の一隅には同藩第9代藩主弘封の霊が眠っている。
(写真)「牛久沼八十八札所第五十四番」札所石標
 
昔、四国八十八札所巡りができない人々のために牛久沼八十八札所が設けられていて、東林寺にはその第五十四番札所が置かれていた。四国八十八札所の第五十四番札所は近見山延命寺(愛媛県今治市)だ。なお、江戸時代の末期に入るころ、取手宿(現取手市)の長禅寺を第一番札所として利根川を挟んで相馬八十八札所が設けられていた。

(写真) 東林寺を開基した尾上治胤の五輪塔(牛久市指定文化財)

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