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作成日:2006/06/30


住井すゑとその文学の里(5)   ー 牛久沼のほとり ー 

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功

17歳の住井が書いた作品「春」

大正8年(1919年)当時の内閣総理大臣は第10代の原敬で、彼は岩手県の出身だった。内閣総理大臣は初代伊藤博文以来、長州・薩摩・肥前(佐賀)の各藩出身者(公家系の第7代西園寺公望を除く)で占められてきていた。この年、多村立尋常小学校准訓導(代用教員)の住井は2年生を担任していた。
 一方、文学に憧れを抱く住井は、毎月、博文館発行の少年少女向け雑誌「少年世界」に特設されている読者欄に散文などを投稿していた。それで手にした賞品の図書券(額面50銭。白米1升40銭がこの年9月に60銭に暴騰した)で児童たちに本を購入してやっていたが、さらに多くの図書券が必要になり、総合文芸雑誌「文章世界」への投稿となった。その文章世界(大正8年3月号)に掲載された住井(17歳)の作品を記してみた。
 春    住井すゑ子(奈良)

連山の雪解の水は流れます。音もなく流れます。そして地球は徐ろに廻転してゐます。
 春が来ました。私の霊の上にも若芽が萌えてゐます。これがあの死に憧憬れた霊なのかと思ふとほんとにをかしい程ですね。
 ごらんなさい。華かな今の私の霊を 雄大な自然の姿を。おきゝなさい。此の霊のさゝやきを 気高い自然のさゝやきを 
 自然はしばらくもためらひません。鳥は謳ってゐます。花は咲きます。
 そして私の霊は躍ります。血は沸きかへります。何といふ美しさで、若さでせう。
 これに「作品としてはおもしろい。たゞ女の仮名で投稿したのは悪趣味でないまでも浅い悪戯の心からではないか」との選評がついた。
 この選評がついたのには訳があった。
 博文館では読者投稿欄の賞品獲得常連の住井すゑ子(当時はすゑ子と名乗っていた)を排除して、賞品が他の投稿者にも行き渡る方針をとった。が、総合文芸雑誌、文章世界の北原白秋、加能作次郎、若山牧水、内藤鳴雷、前田晁、正宗得三郎ら当代一流の最終審査員に手心を加えてくれとは言えずに、結局は住井すゑ子に上位の賞を与えてしまった。そんな事情により、選者係が、これは住井すゑ子の名を騙る大人が、今度は文章世界に手を伸ばしてきたものとの疑いをもって、住井すゑ子に反省を求める選評をつけたのだった。
 住井は博文館へ「獲得した図書券で、児童たちが喜ぶ本を購入してやっているのに、博文館ではこのけなげな子どもたちのささやかな楽しみを奪うのか」という内容の抗議文を書き送った。抗議文は、博文館への宣戦布告とも挑戦ともとれる、かなり激しい内容だったようだ。
 東京・本郷の博文館は、教科書と各種文芸雑誌を発行していて、印刷所も所有する日本の代表的な出版社だったので、幹部社員は私設文部省と自負していた。
 住井の抗議文が届くとその博文館に大きな衝撃が走った。

博文館編集部員犬田卯との出会い
 博文館の編集部では、住井すゑ子本人が本名だと主張してきているのだから、その住井すゑ子に直接会って首実検するしかあるまいということになった。編集長に部員の犬田卯が住井すゑ子に会ってくるようにと命じられた。
 住井のもとに、犬田から「いつも優れた作品を御投稿くださる貴方にお会いしたいと思っていたが、この度、奈良市まで出張するので、よろしければ奈良まで御足労いただけないか」という旨の手紙が届いた。
 大正8年(1919年)、吉野山の桜花爛漫の4月、住井は奈良市へ出掛けていった。
写真) 若いころの住井すゑ
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