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作成日:2005/10/31

歴史 読み物 昔の牛久

牛久市文化財保護審議委員   栗 原   功    

南北朝・室町・安土桃山前期の牛久領主岡見(尾上)家の興亡(一)

岡見(尾上)家の本家小田家由来

〜 源頼朝の血統 〜

 岡見(系統によっては尾上)家の由来について、筆者は「牛久町史中世編」や「広報うしく」(2度)に記述しておいた。が、その岡見家の由来を大きく書き改めなければならなくなったので記しておきたい。
 岡見家は南北朝より、室町、そして安土桃山時代前期までの牛久領主、厳密には元の牛久、岡田両村のほぼ全域と、元の奥野村の一部の領主だった。その岡見家は小田家(現在のつくば市小田を拠点にした)の分家で、岡見家も小田家の家紋州浜を用いていた。
 小田家の始祖は知家(朝家)といった。知家は第56代清和天皇より出た源家第8代義朝の十男として生まれ、三男頼朝の異母弟にあたった。父義朝滅亡後、平家の難を避けるために外祖父八田(藤原北家系)宗綱の養子になり、八田荘(現筑西市八田)に住して八田四郎知家と称した。
 一方、源家棟梁の立場にあった頼朝は、配流されていた伊豆の片田舎で挙兵。平家を滅ぼして、建久3年(1192年)に第82代後鳥羽天皇より征夷大将軍に補任され、鎌倉(神奈川県鎌倉市)に幕府を開いた。
 知家は兄頼朝の初陣のときから従い、戦功によって常陸国の守護職に任ぜられ、領地の筑波山麓の小田に城を築き、そこに守護職政務所を設置した。知家は後に宿老(13人の宿老の合議で幕政の裁決が行われていた)にも任ぜられた。
 鎌倉時代の中期に第88代後嵯峨天皇の第一皇子久仁(後深草天皇。持明院統。北朝系の祖)と同第三皇子恒仁(亀山天皇。大覚寺統。南朝系の祖)の兄弟が、皇位を相次いで継承した。以後の皇位継承は、幕府干渉により両皇統(両統にも流派が生じた)から、10年ごとに交互に出すことになった。皇位継承は天皇の意志によってのみ決すべきとする南朝系大覚寺統から出た第96代後醍醐天皇は、側近の公卿らと討幕の計画を2度練り、2度とも失敗に終わった。元弘元年(1331年)に鎌倉幕府は北朝系持明院統の光厳を皇位に就け、翌年に後醍醐天皇を隠岐島(島根県北部)へ配流した。その護送役を小田家の第7代治久、千葉貞胤、佐々木道誉らが務めた。治久はまた後醍醐天皇に側近として仕え、流罪処分になった公卿藤原藤房を領地で預かった。藤房は小田城に近い藤沢城(現新治村)中およびその周辺で1年余り謹慎していた。
 元弘3年の5月になると、京都において幕府軍の大将の一人足利尊氏(源家の子孫)が反旗を翻した。もう一人の大将新田義貞も上野国(現群馬県)で倒幕の兵をあげ、これに治久ら東国(関東)諸国の武士が加わり、源頼朝以来の鎌倉幕府が壊滅を遂げた。6月、尊氏、楠木正成らに迎えられて京都に帰った後醍醐天皇による政治が開始された。中納言に復職していた藤房の配慮で、治久は御所清涼殿(天皇の常の居所)への昇殿を許された。治久は、後醍醐天皇の実名尊治の治を用いて治久(旧名は高知)と名乗れと命じられた。
 後醍醐天皇の政治は「第40代天武天皇の絶対的政治」を理想としたが、源家の鎌倉幕府再興を図ろうとする尊氏の謀叛などにより2年余りで破綻を来した。後醍醐天皇は吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れ、そこに南朝の御所を立てた。これに対して尊氏は、自分が立てた北朝・光明天皇より征夷大将軍に補任され、京都室町に幕府を開いた。これより南朝系と北朝系の天皇並立による政権の分立で内戦が50年余り続いた。
 南朝方は、正成、義貞の相次ぐ戦死で劣勢に陥った。南朝年号延元3年、北朝年号暦応元年(1338年)9月、その南朝方では東国(関東)の勢威回復を図るため、柱石の北畠親房が義良・宗良両親王を奉って、伊勢大湊(現伊勢市)を出帆した。五百艘からなる船団は暴風に遭い、親王らと離れた親房は霞ヶ浦の東条浦(現稲敷市)に着いた。
 常陸南朝方の総帥の立場に置かれていた治久は、親房を小田城中に迎え入れた。親房は北朝軍(当地では佐竹家の軍勢)と戦いながら、小田城中で尊王思想の「大日本は神国なり」で始まる「神皇正統記」の執筆に着手し、これを関城(現筑西市)へ移って完成させた。小田は尊王思想の発祥だ。

足長州浜紋(小田家家紋)  岡見家家紋丸に州浜(系統によっては丸を用いない場合もあった。これらは岡見家のほか、穴戸、筑波、柿岡など小田一族が用いた 小田家が旗や幕や鎧に用いた六洲浜紋。治久が後醍醐天皇に小田家が源家の血統である証に源家の祖六孫王経基(清和天皇の孫)の六の字を旗、幕、鎧紋に用いるよう命じられた

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