作成日:2005/03/13


歴史 読み物 昔の牛久


あんパン考案者 木村安兵衛(2) そのあんパンを明治天皇に献上

牛久市文化財保護審議委員   栗原 功  

江戸に出て米蔵番(桑名藩士)の雇人になった安兵衛

 安兵衛は齢40を過ぎた文久3年(1863年)前後に家督を長男の義之助に譲って、妻ぶん、二男英三郎、三男義三郎、それに長女のつねを連れて江戸に出た。
 そのころ、政局の中心地、京都では、守護職の松平容保(会津藩主)が「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」の悲愴な決意で、配下の新撰組などを用いて尊王攘夷派を取り締まっていた。翌元治元年には容保の実弟、伊勢国の桑名藩(現在は三重県桑名市)主松平定敬が京都所司代に任命され、容保・定敬兄弟が動乱の京都警備を担当し、天皇家と幕府間の融和にも努めていた。
 ところで桑名藩の名物は「時雨蛤」と「時雨茶漬」であった。その桑名藩の藩主松平定敬より五代前の藩主忠和は、関流和算(数学。レベルは西洋数学に匹敵していた)の大家でもあった。
 一方、桑名藩の江戸の藩邸(上屋敷)は北八丁堀にあった。近くには同藩の蔵屋敷があって、安兵衛はそこの米蔵番(桑名藩士)の雇人になった(桑名藩に武士として仕えたわけではない)。木村本家から出た幕臣(旗本)の市三郎重義の世話だった。(つづく) イラスト) 当時の米蔵の様子

>1 >2 >3 >4 >5 >6 >7 >8 >9 >10 >11 >12 >13